宇治拾遺物語 - 029 明衡殃に逢はんと欲する事

昔博士にて大学頭明衡と云ふ人ありき。若かりける時さるべき所に宮仕へける女房を語らひて其所に入り臥さんこと便なかりければその傍にありける下衆の家を借りて。女房語らひ出だして臥さん。と云ひければ男主人はなくて妻ばかりありけるが。いと安き事。とて己が臥す所より外に臥すべき所のなかりければ我が臥し所を去りて女房の局の畳を取り寄せて寝にけり。
家主人の男我が妻の密男すると聞きて。その密男今宵なん逢はんと構ふる。と告ぐる人ありければ。来んを構へて殺さん。と思ひて妻には。遠く物へ行きて今四五日帰るまじ。と云ひて虚行きをして窺ふ夜にてぞありける。
家主人の男夜更けて立ち聞くに男女の忍て物云ふ気色しけり。さればよ隠男来にけり。と思ひて密に入りて窺ひ見るに我が寝所に男女と臥たり。暗ければ確かに気色見えず。男に鼾する方へやをらのぼりて刀を逆手に抜き持ちて腹の上と思しき程を探りて。突かん。と思ひて肱を持ち上げて突きたてんとするほどに月影の板間より漏りたりけるに指貫のくくり長やかにてふと見えければそれにきと思ふやう。我が妻の許にはかやうに指貫著たる人はよも来じものを、もし人違へしたらんはいとほしく不便なるべき事。と思ひて手をひき返して著たる衣などを探りけるほどに女房ふと駭きて。此処に人の音するは誰そ。と忍びやかに云ふ。気はひ我が妻にあらざりければ。さればよ。と思ひて居退きけるほどにこの臥したる男もおどろきて。誰そ誰そ。と問ふ声を聞きて。我が妻の下なる所に臥して。我男の気色の怪しかりつるはそれが密に来て人違などするにや。と覚えけるほどに驚き騒ぎて。あれは誰そ。盗人かな。と喧騒る声の我が妻にてありければ。他人々の臥したるにこそ。と思ひて走り出でて妻が許に行きて髪をとりて引き伏せて。いかなる事ぞ。と問ひければ妻。さればよ。と思ひて。かしこういみじき過ちすらん。彼処には上臈の今宵ばかりとて借らせ給ひつれば貸し奉りて我は宿にこそ臥したれ。希有のわざする男かな。と喧騒る時にぞ明衡も駭きて。いかなる事ぞ。と問ひければその時に男出で来て云ふやう。己は甲斐殿の雑色某と申す者にて候。一家の君おはしけるを知り奉らでほとほと過ちをなん仕るべく候ひつるに希有に御指貫の括りを見付けてしかじか思ひ給ひてなん肱を引きしじめて候ひつる。と云ひていみじう詫びける。甲斐殿といふ人はこの明衡の妹の男なりけり。思ひ掛けぬ指貫の括りの徳に希有の命をこそ生きたりけれ。かかれば人は忍ぶと云ひながら怪しき所には立ち寄るまじきなり。