これも今は昔右の顔に大きなる瘤ある翁ありけり。大かうじの程なり。人にまじるに及ばねば薪をとりて世を過ぐるほどに山へ行きぬ。雨風はしたなくて帰るに及ばで山の中に心にもあらず留まりぬ。また樵夫もなかりけり。怖ろしさすべき方なし。
木の空虚のありけるに這ひ入りて目も合はず屈まり居たるほどに遥より人の声多くしてとどめき来る音す。いかにも山の中に只だ独り居たるに人の気はひのしければ少し生き出づる心地して見出だしければ大方やうやうさまざまなる者ども赤き色には青き物を著黒き色には赤き物を著犢鼻褌にかき大方目一つあるものあり口なき者など大方いかにも言ふべきにあらぬ者ども百人ばかりひしめき集りて火を貂の目の如くにともして我が居たる空虚木の前に居まはりぬ。大方いとど物覚えず。主とあると見ゆる鬼横座に居たり。表裏に二列に居並みたる鬼数を知らず。その姿各云ひ尽し難し。酒まゐらせ遊ぶ有様この世の人のする定なり。度々土器はじまりて主との鬼殊の外に酔ひたるやうなり。末より若き鬼一人立ちて折敷をかざして何と云ふにかくどきくせせる事を云ひて横座の鬼の前に黎り出でて口説くめり。横座の鬼杯を左の手に持ちて笑みこだれたる様ただこの世の人の如し。舞ひて入りぬ。次第に下より舞ふ。悪しく舞ふもあり善く舞ふもあり。
あさましと見るほどにこの横座に居たる鬼の云ふやう。今宵の御遊こそ何時にも勝れたれ。但しさも珍らしからん舞奏を見ばや。など云ふにこの翁。物の付きたりけるにや。また神仏の思はせ給ひけるにや。あはれ走り出でて舞はばや。と思ふを一度は思ひ返しつ。それに何となく鬼どもが打ちあげたる拍子の善げに聞えければ。さもあれただ走り出でて舞ひてん死なばさてありなん。と思ひ取りて木の空虚より烏帽子は鼻に垂れ掛けたる翁の腰に斧といふ木切る物さして横座の鬼の居たる前に躍り出でたり。この鬼ども跳り上りて。こは何ぞ。と騒ぎ合へり。翁伸び上がり屈まりて舞ふべき限りすぢりもぢりえい声を出だして一庭を走り廻り舞ふ。横座の鬼より始めて集まり居たる鬼ども感歎み興ず。
横座の鬼の曰く。多くの年比この遊をしつれども未だかかるものにこそ逢はざりつれ。今よりこの翁かやうの御遊に必ず参れ。と云ふ。翁申すやう。沙汰に及び候はず参り候ふべし。この度は俄にて秘曲の手も忘れ候ひにたり。かやうに御覧に適ひ候はば静かに仕う奉り候はん。と云ふ。横座の鬼。いみじく申したり。必ず参るべきなり。と云ふ。
奥の座の三番目に居たる鬼。この翁かくは申し候へども参らぬ事も候はんずらん。おぼしし質をや取らるべく候ふらん。と云ふ。横座の鬼。然るべし然るべし。と云ひて。何をか取るべき。と各云ひ沙汰するに横座の鬼の云ふやう。かの翁が面にある瘤をや取るべき。瘤は福の物なればそれをや惜しみ思ふらん。と云ふに翁が云ふやう。ただ目鼻をば召すともこの瘤は許し給ひ候はん。年比持ちて候ふ物を故なく召されん条なき事に候ひなん。と云へば横座の鬼。かう惜しみ申す物なり。ただそれを取るべし。と云へば鬼寄りて。さは取るぞ。とて捻ぢて引くに大方痛きことなし。さて。必ずこの度の御遊に参るべし。とて暁に鳥など鳴きぬれば鬼ども帰りぬ。
翁顔をさぐるに年来ありし瘤跡形なく掻い拭ひたるやうに更々なかりければ樵らん事も忘れて家に帰りぬ。妻のうば。こはいかなりつる事ぞ。と問へばしかじかと語る。あさましき事かな。と云ふ。隣にある翁左の顔に大きなる瘤ありけるがこの翁瘤の失せたるを見て。こはいかにして瘤は失せ給ひたるぞ。何処なる医師の取り申したるぞ。我に伝へ給へ。この瘤取らん。と云ひければ。これは医師の取りたるにもあらずしかじかの事ありて鬼の取りたるなり。と云ひければ。我その定にして取らん。とて事の次第を細かに問ひければ教へつ。
この翁云ふままにしてその木の空虚に入りて待ちければ誠に聞くやうにして鬼ども出で来たり。居まはりて酒飲み遊びて。いづら翁は参りたるか。と云ひければこの翁。怖ろし。と思ひながらゆるぎ出でたれば鬼ども。ここに翁参りて候ふ。と申せば横座の鬼。こち参れ。疾く舞へ。と云へば前の翁よりは天骨もなく疎々奏でたりければ。この度は悪ろく舞ひたり。かへすがへす悪ろし。その取りたりし質の瘤返し給べ。と云ひければ末つ方より鬼出で来て。質の瘤返し給ぶぞ。とて今片方の顔に投げ付けたりければ左右へに瘤付きたる翁にこそなりたりけれ。物羨みはせまじき事なりとか。