宇治拾遺物語 - 170 渡天の僧穴に入る事

今は昔唐土にありける僧の天竺に渡りて他事にあらずただ物のゆかしければ物見にし歩りきければ所々見行きけり。ある方山に大きなる穴あり。牛のありけるがこの穴に入けるを見てゆかしく覚えければ牛の行くに付きて僧も入りけり。遥に行きて明き所へ出でぬ。見まはせばあらぬ世界と覚えて見も知らぬ花の色のいみじきが咲き乱れたり。
牛この花を食ひけり。試みにこの花を一房取りて食ひたりければ甘き事。天の甘露もかくやあらん。と覚えてめでたかりけるままに多く食ひたりければただ肥えに肥えふとりけり。心得ず恐ろしく思ひてありつる穴の方へ帰り行くに初めはやすく通りつる穴身の太くなりて狭く覚えてやうやうとして穴の口までは出でたれども得出でずして堪へ難き事限りなし。前を通る人に。これ助けよ。と呼ばはりけれども耳に聞入るる人もなし。助くる人もなかりけり。人の目にも何と見えけるやらん不思議なり。日比かさなりて死ぬ。後は石になりて穴の口に頭をさし出だしたるやうにてなんありける。玄奘三蔵天竺に渡り給ひたりける日記にこの由記されたり。

宇治拾遺物語 - 171 寂昭上人鉢を飛ばす事