宇治拾遺物語 - 078 御室戸僧正の事并一乗寺僧正の事

御室戸僧正の事
これも今は昔一乗寺僧正御室戸僧正とて三井の門流にやんごとなき人おはしけり。御室戸僧正は隆家の帥の第四の子なり。一乗寺僧正は経輔大納言の第五の子なり。御室戸をば隆明といふ。一乗寺をば増誉といふ。この二人おのおの尊くて生仏なり。御室戸は肥満て修行するに及ばず。偏に本尊の御前を離れずして夜昼行ふ鈴の音絶ゆる時なかりけり。
自づから人の行き向ひたれば門をば常に鎖したる。門を敲く時たまたま人の出で来て。誰ぞ。と問ふ。云々の人の参らせ給ひたり。もしは。院の御使に候ふ。など云へば。申し候はん。とて奥へ入りて無期にある程鈴の音頻りなり。
さてとばかりありて門の関木をはづして扉片つ方を人一人入る程開けたり。見入るれば庭には草繁くして道踏みわけたる跡もなし。露を分けて入りて昇りたれば広廂一間あり。妻戸に明障子立てたり。煤気とほりたる事いつの世に張りたりとも見えず。
暫しばかりありて墨染著たる僧足音もせで出で来て。暫しそれにおはしませ。行ひのほどに候ふ。と云へば待ち居たるほどにとばかりありてうちより。それへ入らせ給へ。とあれば煤けたる障子を引き開けたるに香の煙くゆり出でたり。萎え通りたる衣に袈裟なども所々破れたり。物も云はで居られたればこの人も。いかに。と思ひて向ひ居たるほどに拱きて少し俯伏したるやうにて居られたり。
暫しあるほどに。行ひの程よくなり候ひぬ。さらば疾く帰らせ給へ。とあれば云ふべき事も云はで出でぬればまた門やがて鎖しつ。これは偏に居行ひの人なり。
一乗寺僧正の事
一乗寺僧正は大峰は二度通られたり。蛇を見る法行はる。また龍の駒などを見などしてあられぬ有様をして行ひたる人なり。その坊は一二町ばかりより犇きて田楽猿楽など犇き随身衛府の男どもなど出で入り犇く。物売りども入り来て鞍太刀さまざまの物を売るを彼が云ふままに価を給びければ市をなしてぞ集ひける。さてこの僧正の許に世の宝は集ひ集まりたりけり。
それに呪師小院といふ童を愛せられけり。鳥羽の田植にみつきしたりける。さきざきいくひに乗りつつみつきをしける男の田植に僧正云ひ合はせてこの比するやうにあふぎにたちたちしてこははより出でたりければ大方見る者も驚き驚きし合ひたりけり。
この童余りに寵愛して。由なし。法師になりて夜昼離れず付きてあれ。とありけるを童。いかが候ふべからん。今暫しかくて候はばや。と云ひけるを僧正なほいとほしさに。ただなれ。とありければ童しぶしぶに法師になりにけり。
さて過ぐるほどに春雨打そそぎて徒然なりけるに僧正人を呼びて。あの僧の装束はあるか。と問はれければ。納殿に未だ候ふ。と申しければ。取りて来。と云はれけり。持て来たりけるを。これを著よ。と云はれければこの呪師小院。見苦しう候ひなん。と辞みけるを。ただ著よ。と責め宣ひければかたかたへ行きて装束きて兜して出で来たりけり。つゆ昔に変らず。僧正打見てかひを作られけり。
小院また面変はりして立てりけるに僧正。未だはしりで御おぼゆや。とありければ。覚え候はず。但しかたさらはの手こそ。能くしつけて来し事なれば少し覚え候ふ。と云ひて笙の中割りて通る程を走りてとぶ。兜持ちて一拍子にわたりたりけるに僧正声を放ちて泣かれけり。さて。こち来よ。と呼び寄せて打撫でつつ。何しに出家をせさせけん。とて泣かければ小院も。然ればこそ今暫しと申候しものを。と云ひて装束ぬがせて障子の内へ具して入られにけり。その後はいかなる事かありけん知らず。