昔閑院大臣殿冬嗣三位中将におはしける時瘧病を重く煩ひ給ひけるが。神名といふ所に叡実といふ持経者なん瘧病はよく行じ落し給ふ。と申す人ありければ。この持経者に行ぜん。とて行き給ふに荒見川のほどにて早うおこり給ひぬ。
寺は近く成ければ。これより帰べきやうなし。とて念じて神名におはして坊の簷に車を寄せて案内を云ひ入れ給ふに。近比蒜を食ひ侍り。と申す。然れども。ただ上人を見奉らん。只今まかり帰る事恊ひ侍らじ。とありければ。さらば早入り給へ。とて房の蔀おろし立てたるを取りて新しき筵敷きて。入り給へ。と申しければ入り給ひぬ。
持経者沐浴してとばかりありて出で逢ひぬ。長高き僧の痩せさらぼひて見に尊げなり。僧申すやう。風重く侍るに医師の申すに従ひて蒜を食ひて候ふなり。それにかやうに御座まし候へばいかでかはとて参りて候ふなり。法花経は浄不浄を嫌はぬ経にてましませば読奉らん。何条ことか候はん。とて念珠を押し摺りてそばへ寄り来たる程尤も頼もし。御頚に手を入れて我が膝を枕にせさせ申して寿量品を打出だして読む声いと貴し。然ばかり貴き事もありけり。と覚ゆ。少し皺枯て高声に誦する声誠に哀れなり。持経者目より大きなる涙をはらはらと落して泣く事限りなし。その時覚めて御心地いと爽やかに残りなくよくなり給ひぬ。返す返す後世まで契りて帰り給ひぬ。それよりぞ有験の名は高く広まりけるとか。