宇治拾遺物語 - 196 盗跖孔子に与ふる問答の事

これも今は昔唐土に柳下恵といふ人ありき。世の賢き者にして人に重くせらる。その弟に盗跖 といふ者あり。一つの山の懐に住みて諸々の悪しき者を招き集めて己が伴侶として人の物をば我が物とす。歩りく時はこの悪しき者どもを具する事二三千人なり。道に逢ふ人を亡ぼし恥を見せ善からぬ事の限りを好みて過ぐすに柳下恵道を行く時に孔子に逢ひぬ。何処へおはするぞ。自ら対面して聞えんと思ふ事のあるにかしこく逢ひ給へり。と云ふ。柳下恵。いかなる事ぞ。と問ふ。教訓し聞えんと思ふ事はそこの舎弟諸々の悪しき事の限を好みて多くの人を歎かする。など制し給はぬぞ。柳下恵答へて曰く。己が申さん事を敢へて用ふべきにあらず。されば歎きながら年月を経るなり。と云ふ。孔子の曰く。そこ教へ給はずば我行きて教へん。いかがあるべき。柳下恵曰く。更におはすべからず。いみじき詞を尽して教へ給ふとも靡くべき者にあらず。却りて悪しき事出で来なん。あるべき事にあらず。孔子曰く。悪しけれど人の身を得たるものは自づから善き事を云ふにつく事もあるなり。それに。悪しかりなん。よも聞かじ。と云ふ事は僻事なり。よし見給へ。教へて見せ申さん。と詞を放ちて盗跖が許へおはしぬ。
馬より下り門に立ちて見ればありとある者猪鳥を殺し諸々の悪しき事を集へたり。人を招きて。魯の孔子といふ者なん参りたる。と云ひ入るるに即ち使帰りて曰く。音に聞く人なり。何事によりて来たれるぞ。人を教ふる人と聞く。我を教へに来たれるか。我心に適はば用ひん。適はずは肝膾に作らん。と云ふ。その時に孔子進み出でて庭に立ちて先づ盗跖を拝みて昇りて座に著く。盗跖を見れば頭の髪は上ざまにして乱れたる事蓬の如し。目大きにして見廻転す。鼻を吹きいからかし牙を噛み髭をそらして居たり。盗跖が曰く。汝来たれる故はいかにぞ。確に申せ。と怒れる声の高く恐ろしげなるをもちて云ふ。
孔子思ひ給ふ。予ても聞きし事なれどかくばかり恐ろしき者とは思はざりき。容貌有様声まで人とは覚えず。肝心も砕けて震はるれど思ひ念じて曰く。人の世にあるやうは道理をもて身の飾りとし心の掟とするものなり。天を戴き地を踏みて四方を固めとし公を敬ひ奉り下を憐れみ人に情を致す事をするものなり。然るに承れば心の恣に悪しき事をのみ事とするは当時は心に適ふやうなれども終には悪しきものなり。さればなほ人は善きに随ふを善しとす。然れば申すに随ひていますかるべきなり。その事申さんと思ひて参りつるなり。と云ふ。
時に盗跖雷のやうなる声をして笑ひて曰く。汝が云ふ事ども一も当らず。その故は昔尭舜と申す二人の帝世に尊まれ給ひき。然れどもその子孫世に針さすばかりの所を領らず。また世に賢き人は伯夷叔齊なり。首陽山に臥せりて飢ゑ死にき。またそこの弟子に顔回といふ者ありき。賢く教へ奉りしかども不幸にして命短し。また同じき弟子にて子路といふ者ありき。衛の門にして殺されき。然かあれば賢き輩は遂に賢き事もなし。我また悪しき事を好めど災ひ身に来らず。誉めらるるもの四五日に過ぎず。謗らるるものまた四五日に過ぎず。悪しき事も善き事も長く誉められ長く謗られず。然かれば我が好みに随ひて振舞ふべきなり。汝また木を折りて冠にし皮を持ちて衣とし世をおそり公におぢ奉るも二たび魯に遷され跡を衛にけづらる。など賢からぬ。汝が云ふ所実に愚かなり。速かに走り帰りね。一つも用ふべからず。と云ふ時に孔子また云ふべき事覚えずして座を立ちて急ぎ出でて馬に乗り給ふによく臆しけるにや轡を二たび取りはづし鐙を頻りに踏みはづす。これを世の人。孔子倒れす。と云ふなり。