今は昔丹後国に老いたる尼ありけり。地蔵菩薩は暁ごとに歩き給ふ事を仄かに聞きて暁毎に。地蔵見奉らん。とて一夜かい惑ひ歩りくに博打の打ち呆けて居たるが見て。尼公は寒きに何わざし給ふぞ。と云へば。地蔵菩薩の暁に歩りき給ふなるに逢ひ参らせんとてかく歩りくなり。と云へば。地蔵の歩りかせ給ふ道は我こそ知りたれは。いざ給へ逢はせ参らせん。と云へば。あはれ嬉しき事かな。地蔵の歩りかせ給はん所へ我を率ておはせよ。と云へば。我に物を得させ給へ。やがて率て奉らん。と云ひければ。この著たる衣奉らん。と云へば。いざ給へ。とて隣なる所へ率て行く。
尼喜びて急ぎ行くにそこの子に。ぢざう。といふ童ありけるをそれが親を知りたりけるによりて。ぢざうは。と問ひければ親。遊びにいぬ。今来なん。と云へば。くは此処なり。地蔵のおはします所は。と云へば尼嬉くて紬の衣を脱ぎて取らすれば博打は急ぎて取りていぬ。
尼は地蔵見参らせんとて居たれば親どもは心得ず。何どこの童を見んと思ふらん。と思ふほどに十ばかりなる童の来たるを。くはぢざうよ。と云へば尼見るままに是非も知らず伏し転びて拝み入りて土に俯向たり。童楚を持ちて遊びけるままに来たりけるがその楚して手すさびのやうに額をかけば額より顔の上までさけぬ。さけたる中よりえもいはずめでたき地蔵の御顔見え給ふ。尼拝み入りて打ち見上げたればかくて立ち給へれば涙を流して拝み入り参らせてやがて極楽へ参りけり。されば心にだにも深く念じつれば仏も見え給ふなりけりと信ずべし。