今は昔延喜の御時旱魃したりけり。六十人の貴僧を召して大般若経読ましめ給ひけるに僧ども黒煙を立てて。験顕はさんと祈りけれどもいたくのみ晴れまさりて日強く照りければ帝を始めて大臣公卿百姓人民この一事より外の歎きなかりけり。蔵人頭を召し寄せて静観僧正に仰下さるるやう。殊更思し召さるるやうあり。かくの如く方々の御祈りあれどもさせる験なし。座を立ちて別の壁のもとに立ちて祈れ。思し召すやうあれば取り分け仰せ付くるなり。と仰せ下されければ静観僧正その時は律師にて上に僧都僧正上臈どもおはしけれども面目限りなくて南殿の御階より下りて屏の許に北向に立ちて香炉取りくびりて額に香炉をあてて祈請し給ふこと見る人さへ苦しく思ひけり。熱き日の暫しもえさし出でぬに涙を流し黒煙を立てて祈請し給ひければ香炉の煙空へあがりて扇ばかりの黒雲になる。上達部は南殿に列び居殿上人は弓場殿に立ちて見るに上達部の御前は美福門より覗く。
如レ此く見るほどにその雲群なく大空に引き塞ぎて龍神震動し電光大千界に満ち車軸の如くなる雨降りて天下忽にうるほひ五穀豊饒にして万木果を結ぶ。見聞の人帰依せずと云ふ事なし。さて帝大臣公卿等随喜して僧都に成し給へり。不思議の事なれば末の世の物語にかく記せるなり。