今は昔静観僧正は西搭の千手院といふ所に住み給へり。その所は南に向ふて大岳を守る所にてありけり。大岳の乾の方のそひにに大きなる巌あり。その巌の有様龍の口をあきたるに似たりけり。その巌の筋に向ひて住みける僧ども命脆くして多く死にけり。暫くは。いかにして死ぬるやらん。と心も得ざりけるほどに。この巌ある故ぞ。と云ひ立ちにけり。この巌を。毒龍の巌。とぞ名付たりける。これに因りて西搭の有様ただ荒れにのみ荒れ増りけり。この千手院にも人多く死にければ住みわづらひけり。
この巌を見るに誠に龍の大口をあきたるに似たり。人の云ふことは実にもさありけり。と僧正思ひ給ひてこの巌の方に向ひて七日七夜加持し給ひければ七日といふ夜半ばかりに空曇り震動する事おびただし。大岳に黒雲懸りて見えず。暫くありて空晴れぬ。
夜明けて大岳を見れば毒龍の巌砕けて散り失せにけり。それより後かの西搭に人住みけれども祟りなかりけり。西搭の僧どもは件の座主を今に至るまで貴み拝みけるとぞ語り伝たる。不思議のことなり。