宇治拾遺物語 - 036 山伏舟祈り返す事

これも今は昔越前国甲楽城の渡といふ所に渡りせんとてものども集まりたるに山伏ありけいたう房といふ僧なりけり。熊野御岳は云ふに及ばず白山伯耆の大山出雲の鰐渕大かた修行し残したる所なかりけり。それにこの甲楽城の渡に行て渡らんとするに渡りせんとする者雲霞の如し。
各物を取りて渡す。このけいたう坊。渡せ。と云ふに渡守聞きも入れで漕ぎ出づ。その時にこの山伏。いかにかくは無下にはあるぞ。と云へども大方耳にも聞き入れずして漕ぎ出だす。その時にけいたう坊歯を喰ひ合はせて念珠を揉みちぎる。
この渡守見かへりて。迂愚の事。と思ひたる気色にて三四町ばかり行くをけいたう房見遣りて足を砂子に脛の半らばかり踏み入れて目も赤く睨みなして数珠を砕けぬと揉みちぎりて。召し返せ召し返せ。と叫ぶ。なほ行き過ぐる時にけいたう房袈裟を念珠とを取り合はせて汀近く歩み寄りて護す。召し返せ。召し返さずば長く三宝に別れ奉らん。と叫びてこの袈裟を海に投げ入れんとす。それを見てこの集ひ居たる者ども色を失ひて立てり。
かく云ふほどに風も吹かぬにこの行く舟の此方へ寄り来。それを見てけいたう房。寄りめるは寄りめるは。早う率ておはせ率ておはせ。とすはなちをして見る者色を違へたり。かく云ふほどに一町がうちに寄り来たり。
その時けいたう房。さて今は打覆へせ打覆へせ。と叫ぶ。その時に集ひてみる者ども一声に。むざうの申しやうかな。ゆゆしき罪にも候ふ。さておはしませおはしませ。と云ふ時けいたう房今少し気色変りて。はや打覆へし給へ。と叫ぶ時にこの渡舟に二十余人の渡る者づぶりと投げ覆へしぬ。
その時けいたう房汗をおし拭ひて。あないたの奴ばらや。まだ知らぬか。といひて立ち帰りにけり。世の末なれども三宝おはしましけりとなん。