宇治拾遺物語 - 055 薬師寺別当の事

今は昔薬師寺の別当僧都といふ人ありけり。別当はしけれども殊に寺の物もつかはで極楽に生れん事をなん願ひける。年老い病して死ぬるきざみになりて念仏して消え入らんとす。無下に限りと見ゆるほどによろしうなりて弟子を呼びて云ふやう。見るやうに念仏は他念なく申して死ぬれば極楽の迎へいますらんと待たるるに極楽の迎へは見えずして火の車を寄す。こは何ぞかくは思はず。何の罪によりて地獄の迎ひは来たるぞ。と云ひつれば車につきたる鬼どもの云ふやう。この寺の物を一とせ五斗かりて未だ返さねばその罪によりてこの迎へはえたるなり。と云ひつれば我が云ひつるは。さばかりの罪にては地獄に落つべきやうなし。その物を返してん。と云へば。火の車を寄せて待つなり。されば疾く疾く一石誦経にせよ。と云ひければ弟子ども手惑をして云ふままに誦経にしつ。その鐘の声のするをり火の車返りぬ。
さてとばかりありて。火の車返りて極楽の迎へ今なんおはする。とて手をすりて悦びつつ終りにけり。その坊は薬師寺の大門の北の脇にある坊なり。今だそのかた失せずしてあり。さばかり程の物遣ひたるにだに火の車迎へに来たる。況して寺物を心のままに遣ひたる諸寺の別当の地獄の迎ひこそ思ひやらるれ。