参河入道今だ俗にてありける折本の妻をば去りつつ若く容貌良き女に思ひ付きてそれを妻にて三河へ率て下りけるほどにその女久しく煩ひて良かりける容貌も衰へて亡せにけるを悲しさの余りにとかくもせで夜もひるも語らひ臥して口を吸ひたりけるにあさましき香の口より出で来たりけるにぞ疎む心出で来て泣く泣く葬りてける。それより。世は憂き物にこそありけれ。と思ひなりけるに三河の国に風祭と云ふ事をしけるに生贄と云ふ事に猪を生けながらおろしけるを見て。この国のきなん。と思ふ心付きてけり。
雉子を生ながら捕へて人の出で来たりけるを。いざこの雉子生けながら作りて食はん。今すこし味や善きと試みん。と云ひければ。いかでか心に入らん。と思ひたる郎等の物も覚えぬが。いみじく侍りなん。いかでか味勝らぬやうはあらん。など囃し云ひけり。少し物の心知りたる者は。あさましき事をも云ふ。など思ひけり。
かくて前にて生けながら毛を毟らせければ暫しはふたふたとするを抑へてただ毟りに毟りければ鳥の目より血の涙を垂れて目を瞬きてこれ彼に見合はせけるを見てえ堪へずして立ちて退く者もありけり。これがかく鳴く事。と興じ笑ひていとど情なげに毟る者もあり。毟り果てておろさせければ刀に随ひて血のつぶつぶと出で来けるを拭ひ拭ひおろしければあさましく堪へ難げなる声を出だして死に果てければおろし果てて。熬焼などして試みよ。とて人々試みさせければ。殊の外に侍りけり。死したるおろして熬焼したるにはこれは勝りたり。など云ひけるをつくづくと見聞きて涙を流して声を立てて喚きけるに。甘しき。などと云ひける者ども支度たがひにけり。
さてやがてその日国府を出でて京に上りて法師になりにけり。道心の発りければ能く心を固めんとてかかる希有の事をして見けるなり。
乞食といふ事しけるにある家に食物えも云はずして庭に畳を敷きて物を食はせければこの畳に居て食はんとしけるほどに簾を巻き上げたりける内に美き装束著たる女の居たるを見ければ我が去りにし古き妻なりけり。あの乞児かくてあらんを見んと思ひしぞ。と云ひて見合はせたりけるを恥づかしとも苦しとも思たる気色もなくて。あな尊と。と云ひて物能く打食ひて帰りにけり。有難き心なりかし。道心を固く発してければさる事に逢ひたるも苦しとも思はざりけるなり。