これも今は昔その人の一定子とも聞えぬ人ありけり。世の人はその由を知りて迂愚がましく思ひけり。その父と聞ゆる人亡せにける後その人の許に年比ありける侍の妻に具して田舎に去にけり。その妻亡せにければすべきやうもなくなりて京へ上りにけり。万づあるべきやうもなく便なかりけるに。この子といふ人こそ一定の由云ひて親の家に居たなれ。と聞きてこの侍参りたりけり。
故殿に年比候ひし某と申す者こそ参りて候へ。御見参に入りたがり候。と云へばこの子。さる事ありと覚ゆ。暫しさぶらへ。御対面あらんずるぞ。と云ひ出だしたりければ侍。し仰せつ。と思ひて睡り居たるほどに近う召し使ふ侍出で来て。御出居へ参らせ給へ。と云ひければ悦びて参りにけり。この召次しつる侍。暫し候はせ給へ。と云ひてあなたへ行きぬ。見まゐらせば御出居のさま故殿のおはしまし候ふ装飾につゆ変らず。御障子などは少し古りたるほどにや。と見るほどに中の障子を引き開くればきと見上げたるにこの子と名乗る人歩み出でたり。これを打見るままにこの年比の侍欷歔もよよと泣く。袖も絞り敢へぬほどなり。
この主人。いかにかくは泣くらん。と思ひて蹲居て。こはなどかく泣くぞ。と問ひければ。故殿のおはしまししに違はせおはしまさぬがあはれに覚えて。と云ふ。さればこそ我も故殿には違はぬやうに覚ゆるをこの人々の。あらぬ。など云ふなる。あさましき事。と思ひてこの泣く侍に云ふやう。己こそ殊の外に老いにけれ。世中はいかやうにて過ぐるぞ。我はまだ幼くて母の許にこそありしかば故殿のありやう能くも覚えぬなり。己をこそ故殿と頼みてあるべかりけれ。何事も申せ。また偏に頼みてあらんずるぞ。先づ当時寒げなり。この衣著よ。とて綿豊肥なる衣一脱ぎて給びて。今はさうなし。これへ参るべきなり。と云ふ。
この侍しおほせて居たり。昨日今日の者のかく云はんだにあり。いはんや故殿の年比の者のかく云へば家主笑みて。この男の年比ずちなくてありけん不便の事なり。 とて後見に召し出でて。これは故殿のいとほしくし給ひし者なり。先づかく京に旅立ちたるに思ひはからひて沙汰しやれ。と云へば卑下なる声にて。む。と答へて立ちぬ。この侍は。虚言せじ。といふ事をぞ仏に申し切りてける。
さてこの主人我を不定げに云ふなる人々呼びて。この侍に事の子細云はせて聞かせん。とて後見召し出でて。明後日これへ人々渡らんと云はるるにさるやうに引つくろひてもてなし荒涼まじからぬやうにせよ。と云ひければ。む。と申してさまざまに沙汰し設けたり。
この得意の人々四五人ばかり来集まりにけり。主人常よりも引きつくろひて出で合ひて御酒度々参りて後云ふやう。我が親の許に年比生ひ立ちたる物候ふをや御覧ずべからん。と云へばこの集まりたる人々心地よげに顔先赤め合ひて。尤も召しいさるべく候。故殿に似けるもかつは哀れに候ふ。と云へば。人やある。何某参れ。と云へば一人立ちて召すなり。見れば鬢はげたる男六十ばかりなるがまみの程など虚言すべうもなきが打ちたる白き狩衣に練色の衣のさる程なる著たり。これは給はりたる衣と覚ゆる。召し出だされて事うるはしく扇を笏に取りて蹲り居たり。
家主の云ふやう。ややこの父のそのかみより己は生い立ちたる者ぞかし。など云へば。む。と云ふ。見えにたるか。いかに。と云へばこの侍云ふやう。その事に候ふ。故殿には十三より参りて候。五十まで夜昼離れ参らせ候はず。故殿の。小冠者小冠者。と召し候ひき。無下に候ひし時も御あとに臥せさせおはしまして夜中暁大壺参らせなどし候ひし。その時は侘しふ堪へ難く覚え候しがおくれ参らせて後は。など然覚え候ひけん。と悔しう候ふなり。と云ふ。主人の云ふやう。そもそも一日汝を呼び入れたりし折我が障子を引き開けて出でたりしをり打見あげてほろほろと泣きしはいかなりし事ぞ。と云ふ。その時侍が云ふやう。それも別の事に候はず。田舎に候ひて故殿亡せ給にきと承りて。今一度参りて御有様をだにも拝み候はん。と思ひて畏れ畏れ参り候ひし。さうなく御出居へ召し出ださせおはしまして候ひし大方忝く候ひしに御障子を引き開けさせ給候しをきと見上げ参らせて候ひしに御烏帽子の真黒にて先づさしいでさせおはしまして候ひしが故殿のかくの如く出でさせおはしましたりしも御烏帽子は真黒に見えさせおはしまししが思ひ出でられおはしまして覚えず涙のこぼれ候ひしなり。と云ふにこの集まりたる人々も笑みを含みたり。
またこの主人も気色変りて。さてまたいづくか故殿には似たる。と云ひければこの侍。その外は大方似させおはしましたる所おはしまさず。と云ひければ人々微笑みて一人二人づつこそ逃げ笑ひにけれ。