宇治拾遺物語 - 091 僧伽多羅刹国に行く事

昔天竺に僧伽多といふ人あり。五百人の商人を舟に乗せて金の津へ行くに俄に悪しき風吹きて舟を南の方へ吹き持て行く事矢を射るが如し。知らぬ世界に吹き寄せられて陸に寄りたるを畏き事にしてさうなく皆惑ひ下りぬ。暫しばかりありていみじくをかしげなる女房十人ばかり出で来て歌を歌ひて渡る。知らぬ世界に来て心細く覚えつるにかかる感でたき女どもを見付て喜びて呼び寄す。呼ばれて寄り来ぬ。近勝りしてらうたきこと物にも似ず。五百人の商人目をつけて感でたがる事限りなし。
商人女に問ふて曰く。我等宝を求めん為に出でにしに悪しき風に逢ひて知らぬ世界に来たり。堪へ難く思ふ間に人々の御有様を見るに憂ひの心皆失せぬ。今は速やかに具しておはして我等を養ひたまへ。舟は皆損じたれば帰るべきやうなし。と云へばこの女ども。さらばいざさせ給へ。と云ひて前に立ちて導きてゆく。
家に着きて見れば白く高き築地を遠く築き廻して門を厳めしく立てたり。その内に具して入りぬ。門の錠をやがてさしつ。内に入りて見ればさまざまの屋ども隔て隔て作りたり。男一人もなし。さて商人ども皆とりどりに妻にして住む。互に思ひあふ事限りなし。片時も離るべき心地せずして住む間この女日毎に昼寝をする事久し。顔をかしげながら寝入る度に少し気疎く見ゆ。
僧伽多この気疎きを見て心えず怪しく覚えければやはら起きてかたがたを見れば様々の隔て隔てあり。茲に一つの隔てあり。築地を高く築き廻らしたり。戸に錠を強くさせり。側より登りて内を見れば人多くあり。あるいは死にあるいは呻吟ふ声す。また白き屍赤き屍多くあり。僧伽多一人の生きたる人を招き寄せて。これはいかなる人のかくてはあるぞ。と問ふに答へて曰く。我は南天竺の者なり。商の為に海をありきしに悪しき風に放たれてこの島に来たれば世にめでたげなる女どもにたばかられて帰らん事も忘れて住むほどに産みと産む子は皆女なり。限りなく思ひて住むほどにまた異商人舟寄り来ぬればもとの男をばかくの如くして日の食にあつるなり。御身どももまた舟来なばかかる目をこそは見給はめ。いかにもして疾く疾く逃げ給へ。この鬼は昼三時ばかりは昼寝をするなり。この間よく逃げば逃ぐべきなり。この籠められたる四方は鉄にて固めたり。その上膕筋を断たれたれば逃べきやうなし。と泣く泣く云ひければ。怪しとは思ひつるに。とて帰りて残りの商人どもにこの由を語るに皆あきれ惑ひて女の寝たる隙に僧伽多を始めとして浜へ皆行きぬ。遥に補陀落世界の方へ向ひて諸共に声を上げて観音を念じけるに沖の方より大きなる白馬浪の上を泳ぎて商人らが前に来て俯伏しに伏しぬ。これ念じ参らする験なり。と思ひてある限り皆取り付きて乗りぬ。
さて女どもは寝起きて見るに男ども一人もなし。逃げぬるにこそ。とてある限り浜へ出でて見れば男皆葦毛なる馬に乗りて海を渡りてゆく。女ども忽ちに長一丈ばかりの鬼になりて十四五丈高くをどり上りて叫び喧騒るにこの商人の中に女の世にありがたかりし事を思ひ出づる者一人ありけるが取りはづして海に落ち入りぬ。羅刹奪ひしらがひてこれを破り食ひけり。
さてこの馬は南天竺の西の浜に至りてふせりぬ。商人ども喜びて下りぬ。その馬かき消つやうに失せぬ。僧伽多深く恐ろしと思ひてこの国に来て後この事を人に語らず。
二年を経てこの羅刹女の中に僧伽多が妻にてありしが僧伽多が家に来たりぬ。見しよりもなほいみじくめでたくなりて云はん方なく美しく僧伽多に云ふやう。君をばさるべき昔の契にや殊に睦まじく思ひしにかく捨てて逃げ給へるはいかに思すにか。我国にはかかる物の時々出で来て人を食ふなり。されば錠をさし築地を高く築きたるなり。それにかく人の多く浜に出でて喧騒る声を聞きてかの鬼どもの来て怒れるさまを見せて侍りしなり。あへて我等がしわざにあらず。帰り給ひて後余りに恋しく悲しく覚えて。殿は同じ心にも思さぬにや。とてさめざめと泣く。朧気の人の心には。然もや。と思ひぬべし。されども僧伽多大きに瞋りて太刀を抜きて殺さんとす。
限りなく恨みて僧伽多が家を出でて内裏に参りて申すやう。僧伽多は我が年比の夫なり。それに我を棄てて住まぬ事は誰にかは訴へ申し候はん。帝王これを判り給へ。と申すに公卿殿上人これを見て限りなく感でまどはぬ人なし。帝聞し召して窺きて御覧ずるに云はん方なく美し。そこばくの女御后を御覧じ較ぶるに皆土塊の如し。
これは玉の如し。かかる者に住まぬ僧伽多が心いかならん。と思し召しければ僧伽多を召して問はせ給ふに僧伽多申すやう。これは更にみ内裏へ入れ見るべき者にあらず。返す返す恐ろしき者なり。ゆゆしき曲事出で来候はんずる。と申して出でぬ。
帝この由聞し召して。この僧伽多は云ひ甲斐なき者かな。よしよし後の方より入れよ。と蔵人して仰せられければ夕暮方に参らせつ。帝近く召して御覧ずるに気はひ姿みめ有様香ばしいく懐かしき事限りなし。さて二人臥させ給ひて後二日三日まで起きあがり給はず。世の政事をも知らせ給はず。
僧伽多参りて。ゆゆしき事出で来たりなんず。あさましきわざかな。これは速に殺され給ぬる。と申せども耳に聞入るる人なし。
かくて三日になりぬる朝御格子も未だあがらぬほどにこの女夜の御殿より出でて立てるを見ればまみも変りて世に恐ろしげなり。口に血を付けたり。暫し世の中を見廻して軒より飛ぶが如くして雲に入りて失せぬ。人々この由申さんとて夜の御殿に参りたれば御帳の中より血流れたり。怪しみて御帳の中を見れば赤き頭一つ残れり。その外は物なし。さて宮の内喧騒る事例へん方なし。臣下男女泣き悲しむ事限りなし。
御子の東宮やがて位に即き給ひぬ。僧伽多を召して事の次第を召し問はるるに僧伽多申すやう。さ候へばこそかかる物にて候へば速に追ひ出ださるべきやうを申しつるなり。今は宣旨を蒙つてこれを打ちて参らせん。と申すに。申さんままに仰せ給ぶべし。とありければ。劔の太刀佩きて候はん兵百人弓矢帯したる百人早船乗せて出だし立てらるべし。と申しければそのままに出だし立てられぬ。
僧伽多この軍兵を具してかの羅刹の島へ漕ぎ行きつつ先づ商人のやうなる者を十人ばかり浜に下ろしたるに例の如く王女ども歌を歌ひて来て商人を誘ひて女の城に入りぬ。その後に立ちて二百人の兵乱れ入りてこの女どもを打切り射るに暫しは恨みたるさまにて哀れげなる気色を見せけれども僧伽多大きなる声を放ちて走廻つて掟てければその時に鬼の姿になりて大口をあきて懸かりけれども太刀にて頭を割り手足打切りなどしければ空を飛びて逃ぐるをば弓にて射落しつ。一人も残る者なし。家には火をかけて焼き払ひつ。空しき国となし果てつ。
さて帰りて朝廷にこの由申しければ僧伽多にやがてこの国を給びつ。二百人の軍を具してその国にぞ住みける。いみじくたのしかりけり。今は僧伽多が子孫かの国の主にてありとなん申し伝へたる。