宇治拾遺物語 - 092 五色鹿の事

これも昔天竺に身の色は五色にて角の色は白き鹿一つありけり。深山にのみ住みて人に知られず。その山の辺に大きなる川あり。その山にまた烏ありこの鹿を友として過ぐす。
ある時この川に男一人流れて既に死なんとす。我を人助けよ。と叫ぶにこの鹿この叫ぶ声を聞きてかなしみに堪へずして河を泳ぎ寄りてこの男を助けてけり。男命の生きぬる事を喜びて手を摩りて鹿に向ひて曰く。何事をもちてかこの恩を報い奉るべき。と云ふ。鹿の曰く。何事をもちてか恩をば報はん。ただこの山に我ありといふ事をゆめゆめ人に語るべからず。我身の色五色なり。人知りなば皮を取らんとて必ず殺されなん。この事を恐るるに依りてかかる深山に隠れてあへて人に知られず。しかるを汝が叫ぶ声を悲しみて身の行方を忘れて助けつるなり。と云ふ時に男。これ誠に理なり。さらに洩らす事あるまじ。と返す返す契りて去りぬ。もとの里に帰りて月日を送れども更に人に語らず。
かかるほどに国の后夢に見給ふやう大なる鹿あり。身は五色にて角白し。夢覚めて大王に申し給はく。かかる夢をなん見つる。この鹿定めて世にあるらん。大王必ず尋ね取りて我に与へ給へ。と申し給ふに大王宣旨を下して。もし五色の鹿尋ねて奉らん者には金銀珠玉等の宝並びに一国等を給ぶべし。と仰ふれらるるにこの助けられたる男内裏に参りて申すやう。尋ねらるる色の鹿はその国の深山に候ふ。あり所を知れり。狩人を給ひて取りて参らすべし。と申すに大王大きに喜び給ひて自ら多くの狩人を具してこの男をしるべに召し具して行幸なりぬ。
その深山に入り給ふ。この鹿あへて知らず洞の内に臥せり。かの友とする烏これを見て大きに驚きて声をあげて鳴き耳をくひて引くに鹿驚きぬ。烏告げて曰く。国の大王多くの狩人を具してこの山を取り巻きて既に殺さんとし給ふ。今は逃べき方なし。いかがすべき。と云ひて泣く泣く去りぬ。
鹿驚きて大王の御輿の許へ歩み寄るに狩人ども矢を矧げて射んとす。大王述給ふやう。鹿恐るる事なくして来たれり。定めてやうあるらん。射る事なかれ。その時狩人ども矢をはづして見るに御輿の前に跪きて申さく。我毛の色を恐るるに依りてこの山に深く隠れ住めり。しかるに大王いかにして我が住所をば知り給へるぞや。と申すに大王述給はく。この興のそばにある顔に痣のある男告げ申したるに依りて来たれるなり。鹿見るに顔に痣ありて御輿の傍らに居たり。我が助けたりし男なり。鹿彼に向ひて云ふやう。命を助けたりし時この恩何にても報じ尽し難き由云ひしかば此処に我がある由人に語るべからざる由返す返す契りし所なり。然るに今その恩を忘れて殺させ奉らんとす。いかに汝水に溺れて死なんとせし時我が命を顧ず泳ぎ寄りて助けし時汝限りなく喜びし事は覚えずや。と深く恨みたる気色にて涙を垂れて泣く。
その時に大王同じく涙を流して述給はく。汝は畜生なれども慈悲をもて人を助く。かの男は慾に耽りて恩を忘れたり。畜生と云ふべし。恩を知るをもて人倫とす。とてこの男を捕へて鹿の見る前にて頚を斬らせらる。また述給はく。今より後国の中に鹿を狩ることなかれ。もしこの宣旨を背きて鹿の一頭にても殺す者あらば速に死罪に行はるべし。とて帰り給ひぬ。その後より天下安全に国土豊かなりけりとぞ。