今は昔信濃国に法師ありけり。さる田舎にて法師になりにければまだ受戒もせで。いかで京に上りて東大寺といふ所にて受戒せん。と思ひてとかくして上りて受戒してけり。さて。もとの国へ帰らん。と思ひけれども。由なし。さる無仏世界のやうなる所に帰らじ。此処に居なん。と思ふ心付きて東大寺の仏の御前に候ひて。いづくにか行ひして長閑やかに住みぬべき所やある。と万づの所を見廻しけるに未申の方に当たりて山かすかに見ゆ。其処に行ひて住まん。と思ひて行きて山の中にえも云はず行ひて過ぐすほどにすずろに小さやかなる厨子仏を行ひ出だしたり。毘沙門にてぞおはしましける。
其処に小さき堂を建てて据ゑ奉りてえも云はず行ひて年月を経るほどにこの山の麓にいみじき下種徳人ありけり。そこに聖の鉢は常に飛び行きつつ物は入りて来けり。大なる校倉のあるを開けて物取り出だすほどにこの鉢飛びて例の物乞ひに来たりけるを。例の鉢来にたり。ゆゆしく貪欲き鉢よ。とて取りて蔵の隅に投げ置きて頓に物も入れざりければ鉢は待ち居たりけるほどに物どもしたため果ててこの鉢を忘れて物も入れず取りも出ださで蔵の戸を鎖して主帰りぬるほどにとばかりありてこの蔵すずろにゆさゆさと揺るぐ。いかにいかに。と見騒ぐほどに揺るぎ揺るぎて土より一尺ばかり揺るぎ上がる時に。こはいかなる事ぞ。と怪しがりて騒ぐ。誠々ありつる鉢を忘れて取り出でずなりぬる。それが仕業にや。など云ふほどにこの鉢蔵より漏り出でてこの鉢に蔵乗りてただ昇りに空ざまに一二丈ばかり昇る。さて飛び行くほどに人々見喧騒りあさみ騒ぎ合ひたり。
蔵の主も更にすべきやうもなければ。この蔵の往かん所を見ん。とて後に立ちて行く。その辺の人々も皆走りけり。さて見ればやうやう飛びて河内国にこの聖の行ふ山の中に飛び行きて聖の坊の傍にどうと落ちぬ。いとどあさまし。と思ひてさりとてあるべきならねばこの蔵主聖の許に寄りて申すやう。かかるあさましき事なん候ふ。この鉢の常に参で来れば物入れつつ参らするを紛劇しく候ひつるほどに蔵に打置きて忘れて取りも出ださで錠をさして候ひければこの蔵ただ揺るぎに揺るぎて此処になん飛びて参で来て落ちて候ふ。この蔵返し給ひ候はん。と申す時に。誠に怪しき事なれど飛びて来にければ蔵はえ返し取らせじ。此処にかややうの物もなきに自づから物をも置かんに善し。中ならん物はさながら取れ。と述給へば主の云ふやう。いかにしてか忽ちに運び取り返さん。千石積みて候ふなり。と云へば。それはいと安き事なり。確かに我運びて取らせん。とてこの鉢に一俵を入りて飛ばすれば雁などの続きたるやうに残の俵ども続きたる。
群雀などのやうに飛び続きたるを見るにいとどあさましく尊とければ主の云ふやう。暫し。皆な遣はしそ。米二三百は留めて使はせ給へ。と云へば聖。あるまじき事なり。それ此処に置きては何にかはせん。と云へば。さらばただつかはせ給ふばかり十二十をも奉らん。と云へば。さまでも入るべき事のあらばこそ。とて主の家に確に皆落居にけり。
かやうに尊とく行ひて過ぐすほどにその比延喜御門重く煩はせ給ひてさまざまの御祈りども御修法御読経など万づにせらるれど更にえおこたらせ給はず。ある人の申すやう。河内の国信貴と申す所にこの年来行ひて里へ出づる事もせぬ聖候ふなり。それこそいみじく尊く験ありて鉢を飛ばしさて居ながら万づ有難き事をもし候ふなれ。それを召て祈りせさせ給はば平愈らせ給ひなんかし。と申せば。さらば。とて蔵人を御使にて召しに遣はす。
往きて見るに聖のさま殊に貴くめでたし。かうかう宣旨にて召すなり。疾く疾く参るべき。由云へば聖。何しに召すぞ。とて更に動きげもなければ。かうかう御悩大事におはします。祈り参らせ給へ。と云へば。それは参らずとも此処ながら祈り参らせ候はん。と云ふ。さてはもし平愈らせおはしましたりともいかでか聖の験とは知るべき。と云へば。それは誰が験と云ふ事知らせ給はずとも御心地だに平愈らせ給ひなばよく候ひなん。と云へば蔵人。さるにてもいかでか数多の御祈りの中にもその験と見えんこそよからめ。と云ふに。さらば祈り参らせんに劔の護法を参らせん。自ら御夢にも幻にも御覧ぜばさとは知らせ給へ。劔を編みつつ衣に着たる護法なり。我は更に京へはえ出でじ。と云へば勅使帰り参りてかうかうと申すほどに三日と云ふ昼つ方ちと微睡ませ給ふともなきに煌々とある物の見えければ。いかなる物にか。とて御覧ずればあの聖の云ひけん劔の護法なりと思し召すより御心地爽々となりて聊か心苦しき御事もなく例ざまに成らせ給ひぬ。
人々喜びて聖を尊がり感で合ひたり。御門も限りなく尊く思し召して人を遣はして。僧都僧正にやなるべき。またその寺に庄などや寄すべき。と仰せ遣はす。
聖承りて。僧都僧正更に候ふまじき事なり。またかかる所に庄など寄りぬれば別当なにくれなど出で来てなかなか困惑しく罪得がましく候ふ。ただかくて候はん。とて止みにけり。
かかるほどにこの聖の姉ぞ一人ありける。この聖受戒せんとて上りしまま見えぬ。かうまで年比見えぬはいかになりぬるやらん。覚束なきに尋ねて見ん。とて上りて東大寺山階寺の辺を。命蓮小院と云ふ人やある。と尋ぬれど。知らず。とのみ云ひて。知りたる。と云ふ人なし。
尋ね侘びて。いかにせん。これが行方聞きてこそ帰らめ。と思ひてその夜東大寺の大仏の御前にて。この命蓮が所教へ給へ。と夜一夜申して打微睡みたる夢にこの仏仰せらるるやう。尋ぬる僧のあり所はこれより坤の方に山あり。その山に雲た靡きたる所を行きて尋ねよ。と仰せらるると見て覚めたれば暁方になりにけり。いつしか疾く夜の明けよかし。と思ひて見居たればほのぼのと明方になりぬ。坤の方を見やりたれば山幽かに見ゆるに紫の雲た靡きたり。嬉しくて其方を指して行きたれば誠に堂などあり。
人ありと見ゆる所へ寄りて。命蓮小院やいまする。と云へば。誰そ。とて出でて見れば信濃なりし我が姉なり。こはいかにして尋ねいましたるぞ。思ひがけず。と云へばありつる有様を語る。
さていかに寒くておはしつらん。これを著せ奉らんとて持たりつる物なり。とて引き出でたるを見ればふくたいといふ物をなべてにも似ず太き糸して厚々と細かに強げにしたるを持て来たり。喜びて取りて著たり。もとは紙ぎぬ一重をぞ著たりける。さていと寒かりけるにこれを下に著たりければ暖かにて善かりけり。さて多くの年比行ひけり。さてこの姉の尼君ももとの国へ帰らず留り居て其処に行ひてぞありける。さて多くの年比このふくたいをのみ著て行ひければ果てには破れ破れと著なしてありけり。
鉢に乗りて来たりし蔵をば。飛び蔵。とぞ云ひける。その蔵にぞふくたいの破れなどは納めてまだあんなる。その破れの端をつゆばかりなど自ら縁にふれて得たる人は守りにしけり。その蔵も朽ち破れて未だあんなり。その木の端をつゆばかり得たる人は守りにし毘沙門を作り奉りて持たる人は必ず徳付かぬはなかりけり。されば聞く人縁を尋ねてその蔵の木の端をば買ひ取りける。
さて。信貴。とてえも云はず験ある所にて今に人々明暮参る。この毘沙門は命蓮聖の行ひ出だし奉りけるとか。