これも今は昔敏行と云ふ歌詠みは手を善く書きければこれかれが云ふに随ひて法華経を二百部ばかり書き奉りたりけり。かかるほどに俄に死にけり。我は死ぬるぞ。とも思はぬに俄に搦めて引きはりて率て行けば。我ばかりの人を朝廷と申すともかくせさせ給ふべきか。心得ぬわざかな。と思ひて搦めて行く人に。これはいかなる事ぞ。何事の過ちによりかくばかりの目をば見るぞ。と問へば。いさ我は知らず。確に召して来。と仰せを承りて率て参るなり。そこは法華経や書き奉りたる。と問へば。しかじか書き奉りたり。と云へば。我が為にはいくらか書きたる。と問へば。我が為とも侍らず。ただ人の書かすれば二百部ばかり書きたるらんと覚ゆる。と云へば。その事の愁訴出で来て沙汰のあらんずるにこそあめれ。とばかり云ひてまた他事も云はで行くほどにあさましく人の向ふべくもなく恐ろしと云へばおろかなる物の眼を見れば雷光のやうにひらめき口は焔などのやうに恐ろしき気色したる軍の鎧冑着てえも云はぬ馬に乗り続きて来て二百人ばかり逢ひたり。見るに肝惑ひ倒れ伏しぬべき心地すれども我にもあらず引き立てられて行く。
さてこの軍は先立ちて去ぬ。我搦めて行く人に。あれはいかなる軍ぞ。と問へば。え知らぬか。これこそ汝に経あつらへて書かせたる者どものその功徳に依りて天にも生れ極楽にも参りまた人に生れかへるとも善き身とも生るべかりしが汝がその経書き奉るとて魚をも食ひ女にも触れて清まはる事もなくて心をば女の許に置て書き奉りたればその功徳の協はずしてかくいかり武き身に生れて汝を妬がりて。呼びて給はらん。その讐報ぜん。と愁訴申せばこの度は道理にて召さるべき度にもあらねどもこの愁訴に依りて召さるるなり。と云ふに身も切るるやうに心もしみこほりてこれを聞くに死ぬべき心地す。
さて我をばいかにせんとてかくは申すぞ。と問へば。愚かにも問ふかな。その持ちたりつる太刀刀にて汝が身は先づ二百に切りさきて各一切づつ取りてんとす。その二百の切に汝が心も分れて切毎に心のありて責められんに随ひて悲しく侘しき目を見んずるぞかし。堪へ難き事譬へん方あらんやは。と云ふ。さてその事をばいかにしてか助かるべき。と云へば。更に我も心も及ばず。況して助かるべき力はあるべきにあらず。と云ふに歩むそらなし。
また行けば大きなる川あり。その水を見れば濃く磨りたる墨の色にて流れたり。怪しき水の色かな。と見て。これはいかなる水なれば墨の色なるぞ。と問へば。知らずや。これこそ汝が書き奉りたる法華経の墨のかく流るるよ。と云ふ。それはいかなればかく川にて流るるぞ。と問ふに。心の善く誠を致して清く書き奉りたる経はさながら王宮に納られぬ。汝が書き奉りたるやうに心きたなく身穢はしうて書き奉りたる経は広き野辺に捨て置きたればその墨の雨に濡れてかく川にて流るるなり。この川は汝が書き奉りたる経の墨の川なり。と云ふにいとど恐ろしともおろかなり。
さてもこの事はいかにしてか助かる事ある。教へて助け給へ。と泣く泣く云へば。いとほしけれども尋常き罪ならばこそは助かるべき方をも構へめ。これは心も及び口にても述ぶべきやうもなき罪なればいかがせん。と云ふにともかくも云ふべき方なうて往くほどに恐ろしげなるもの走り逢ひて。遅く率て参る。と誡め云へばそれを聞きてさげ立てて率て参りぬ。
大きなる門に我がやうに引きはられまた盤枷などいふ物を接げられて結ひ搦められて堪へ難げなる目ども見たる者どもの数も知らず十万より出来たり集りて門に所なく入り満ちたり。門より見入るれば、逢ひたりつる軍ども目を嗔らし下舐めづりをして我を見付けて。疾く率て来かし。と思ひたる気色にて立ちさまよふを見るにいとど土も蹈まれず。さてもさてもいかにし侍らんずる。と云へばその控へたる者。四巻経書き奉らん。といふ願を起せ。と密に云へば今門入るほどに。この咎は四巻経書供養して贖はん。と云ふ願を発しつ。
さて入りて庁の前に引き据ゑつ。事沙汰する人。彼は敏行か。と問へば。さに侍り。とこの付き来たる者こたふ。愁訴ども頻りなるものを何ど遅くは参りつるぞ。と云へば。召捕りたるまま滞りなく率て参りて候ふ。と云ふ。娑婆世界にて何事かせし。と問はるれば。仕りたる事もなし。人の誂へに従ひて法花経を二百部書き奉りて侍りつる。と答ふ。
それを聞きて。汝はもと受けたる所の命は今暫くあるべけれどもその経書き奉りし事の穢はしく清からで書きたる愁訴の出で来て搦められぬるなり。速に愁訴申す者どもに出だし賜びて彼等が思ひのままにせさすべきなり。とある時にありつる軍ども喜べる気色にて請け取らんとする時に戦慄く戦慄く。四巻経書供養せんと申す願の候ふをその事をなん未だ遂げ候はぬに召され候ひぬればこの罪重くいとど争ふ方候はぬなり。と申せばこの沙汰する人聞き驚きて。然る事やはある。誠ならば不便なりける事かな。丁を引きて見よ。と云へばまた人大きなる文を取り出でてひくひく見るに我せし事ども脱さず記しつけたる中に罪の事のみありて功徳の事一つもなし。この門入りつるほどに起しつる願なれば奥の果に注されにけり。
文引果てて今はとする時に。さる事侍り。この奥にこそ注されて侍れ。と申し上げければ。さてはいと不便の事なり。この度の暇をば免し給びてこの願遂げさせてともかくもあるべき事なり。と定められければこの目を嗔かして我を疾く得んと手をねぶりつる軍ども失せにけり。確かに娑婆世界に帰りてその願必ず遂げさせよ。とて免さるると思ふほどに生き返りにけり。
妻子泣き合ひてありける二日といふに夢の覚めたる心地して目を見上げたりければ。生き返りたり。とて喜びて湯飲ませなどするにぞ。然は我は死にたりけるにこそありけれ。と心得て勘へられつる事どもありつる有様願を起してその力にて免されつる事など明らかなる鏡に向たらんやうに覚えければいつしか我が力付きて清まはりて。心清く四巻経書供養し奉らん。と思ひけり。
やうやう日比経比過ぎて例のやうに心地もなりにければいつしか四巻経書き奉るべき紙経師に打続がせ罫かけさせて。書き奉らん。と思ひけるがなほもとの心の色めかしう経仏の方に心の至らざりければこの女の許に行きあの女懸想し。いかで善き歌詠まん。など思ひけるほどに暇なくてはかなく年月過ぎて経をも書き奉らでこの受けたりける齢限りにやなりにけん遂に失せにけり。
その後一二年ばかり隔てて紀友則といふ歌詠みの夢に見えけるやう。この敏行と思しき者に逢ひたれば敏行とは思へども様形譬ふべき方もなくあさましく恐ろしうゆゆしげにて現にも語りし事を云ひて。四巻経書き奉らんといふ願によりて暫くの命を助けて返されたりしかどもなほ心の愚かに怠りてその経を書かずして遂に失せにし罪に因りて譬ふべき方もなき苦しみを受けてなんあるをもし哀れと思ひ給はばその料の紙は未だあるらんその紙尋ね取りて三井寺に某と云ふ僧にあつらへて書供養せさせて給べ。と云ひて大きなる声をあげて泣き叫ぶ。と見て汗水になりて驚きて明くるや遅きとその料紙尋ね取りてやがて三井寺に行きて夢に見えつる僧の許へ行きたれば僧見付けて。嬉き事かな。只今人を参らせん。自らにても参りて申さん。と思ふ事のありつるにかくおはしましたる事の嬉しさ。と云へば先づ我が見つる夢をば語らで。何事ぞ。と問へば。今宵の夢に故敏行朝臣の見え給へるなり。四巻経書き奉るべかりしを心の怠りにえ書き供養し奉らずなりにしその罪によりて極まりなき苦しみを受くるをその料紙は御前の許になんその紙尋ね取りて四巻経書供養し奉れ。事のやうは御前に問ひ奉れ。とありつる大きなる声を放ちて叫び泣き給ふと見つる。と語るに哀れなる事おろかならず。さし向ひてさめざめと二人泣きて。我もしかじか夢を見てその紙を尋ね取りて此処に持ちて侍り。と云ひて取らするにいみじう哀れがりてこの僧誠をいたして手づから自ら書供養し奉りて後また二人が夢に。この功徳に依りて堪へ難き苦しみ少し免れたる由心地よげにて形も始めには変りてよかりけり。となん見えける。