これも今は昔東大寺に恒例の大法会あり。華厳会。とぞ云ふ。大仏殿の内に高座を立てて講師のぼりて堂の後より掻い消つやうにして逃げて出づるなり。
古老伝へて曰く。御堂建立の始め鯖売翁来たる。ここに本願の上皇召し留めて大会の講師とす。売る所の鯖を経机にし置く。変じて八十華厳経と成る。即ち講説の間梵語をさへづる。法会の中間に高座にして忽ちに失せをはりぬ。また曰く。鯖を売る翁杖を持て鯖を荷ふ。その鯖の数八十則ち変じて八十華厳経と成る。件の杖の木大仏殿の内東回廊の前に衝き立つ。忽ちに枝葉をなす。これ白榛の木なり。今伽藍の栄え衰へんとするに従ひてこの木栄え枯ると云ふ。かの会の講師この比までも中間に高座より下りて後戸より掻い消つやうにして出づる事これを学ぶなり。かの鯖の杖の木三十四年がさきまでは葉は青くて栄えたり。その後なほ枯木にて立てりしがこの度平家の炎上に焼け終りぬ。世の末ぞかし。と口惜しがりけり。