昔愛宕の山に久しく行ふ聖ありけり。年比行ひて坊を出づる事なし。西の方に猟師あり。この聖を尊みて常には詣でて物奉りなどしけり。久しく参らざりければ餌袋に干飯など入りて詣でたり。聖悦びて日比の覚束なさなど述給ふ。その中に居寄りて述給ふやうは。この程いみじく尊とき事あり。この年来他念なく経をたもち奉りてある験やらんこの夜比普賢菩薩菩薩象に乗りて見え給ふ。今宵留まりて拝み給へ。と云ひければこの猟師。世に尊き事にこそ候ふなれ。さらば留りて拝み奉らん。とて留りぬ。さて聖の使ふ童のあるに問ふ。聖述給ふやういかなる事ぞや。己もこの仏をば拝み参らせたりや。と問へば童は。五六度ぞ見奉りて候ふ。と云ふに猟師。我も見奉る事もやある。とて聖の後にいねもせずして起きゐたり。
九月二十日の事なれば夜も長し。今や今やと待つに夜半過ぬらんと思ふほどに東の山の嶺より月の出づるやうに見えて嶺の嵐もすさまじきにこの坊に内光さし入りたるようにて明るくなりぬ。見れば普賢菩薩白象に乗りてやうやうおはして坊の前に立ち給へり。聖泣く泣く拝みて。いかに主殿は拝み奉るや。と云ひければ。いかがは。この童も拝み奉る。をひをひ。いみじう尊し。とて猟師思ふやう。
聖は年比経をもたもち読み給へばこそその目ばかりに見え給はめ。この童我が身などは経の向きたる方も知らぬに見え給へるは心得られぬ事なり。と心のうちに思ひて。この事試みてん。これ罪得べき事にあらず。と思ひて尖矢を弓につがひて聖の拝み入りたる上よりさしこして弓を強く引きてひやうと射たりければ御胸のほどに当るやうにて火を打消つ如くにて光も失せぬ。谷へ轟めきて逃げ行く音す。
聖。これはいかにし給へるぞ。と云ひて泣き惑ふ限りなし。男申しけるは。聖の目にこそ見え給はめ。我が罪深き者の目に見え給へば試み奉らんと思ひて射つるなり。誠の仏ならばよも矢は立ち給はじ。されば怪しき物なり。と云ひけり。
夜明けて血を覓めて行きて見ければ一町ばかり行きて谷の底に大きなる狸胸より尖矢を射通されて死にて伏せりけり。聖なれど無智なればかやうに化かされけるなり。猟師なれども慮ありければ狸を射害しその化を顕はしけるなり。