宇治拾遺物語 - 105 千手院僧正仙人に逢ふ事

昔山の西塔千手院に住給ひける静観僧正と申しける座主夜深く尊勝陀羅尼を終夜見て明して年比になり給ひぬ。聞く人もいみじく尊みけり。陽勝仙人と申す仙人空を飛びてこの坊の上を過ぎけるがこの陀羅尼の声を聞きて下りて勾欄の矛木の上に居給ひぬ。僧正怪しと思ひて問ひ給ひければ蚊の声のやうなる声して。陽勝仙人にて候ふなり。空を過ぎ候ひつるが尊勝陀羅尼の声を承りて参り侍るなり。と述給ひければ戸を開けて請ぜられければ飛び入りて前に居給ひぬ。
年比の物語して。今は罷りなん。とて立ちけるが人げにおされてえ立たざりければ。香炉の煙を近く寄せ給へ。と述給ひければ僧正香炉を近くさし寄せ給ひける。その煙に乗りて空へ上りにけり。
この僧正は年を経て香炉をさし上げて煙を立ててぞおはしける。この仙人はもと使ひ給ひける僧の行ひして失せにけるを年比怪しと思しけるにかくして参りたりければ。あはれあはれ。と思してぞ常に泣き給ひける。