宇治拾遺物語 - 106 滝口道則術を習ふ事

昔陽成院位にておはしましける時滝口道則宣旨を承り陸奥へ下る間信濃国ひくうといふ所に宿りぬ。郡の司に宿をとれり。設けしてもてなして後主の郡司は郎等引き具して出でぬ。
いも寝られざりければやはらに起きて佇みありくに見れば屏風を立てまはして畳など清げにしき火灯して万づ目安きやうにしつらひたり。空炷物するやらんと香ばしき香しけり。いよいよ心にくく覚えて能く窺きて見れば年二十七ばかりなる女一人ありけり。みめ事がら姿有様殊にいみじかりけるが只一人臥したり。見るままにただあるべき心地せず。あたりに人もなし。火は几帳の外に灯してあれば明くあり。
さてこの道則思ふやう。よによに懇ろにもてなして心ざしありつる郡司の妻を関心たなき心つかはん事いとほしけれどこの人の有様を見るにただあらん事かなはじ。と思ひて寄りて傍らに臥すに女気憎くも驚かず口覆ひをして笑ひ臥したり。云はん方なく嬉く覚えければ長月十日此なれば衣もあまた著ず一重ねばかり男も女も著たり。香ばしき事限りなし。我が衣をば脱ぎて女の懐へ入るに暫しは引き塞ぐやうにしけれどもあながちに気憎からず懐に入れぬ。男の陰茎の痒きやうなりければ探りて見るに物なし。驚き怪しみて能く能く探れども頤のひげを探るやうにて凡て跡形なし。大きに驚きてこの女のめでたげなるも忘られぬ。
この男探りて怪しみくるめくに女少し微笑みてありければいよいよ心得ず覚えてやはら起きて我が寝所へ帰りて探るに更になし。あさましくなりて近く使ふ郎等を呼びてかかるとは云はで。此処にめでたき女あり。我も行きたりつるなり。と云へば喜びてこの男いぬれば暫しありてよによにあさましげにてこの男出で来たれば。これも然るなめり。と思ひてまたこと男を誘めて遣りつ。これもまた暫しありて出で来ぬ。空を仰ぎてよに心得ぬ気色にて帰りてけり。かくの如く七八人まで郎等を遣るに同じ気色に見ゆ。
かくするほどに夜も更けぬれば道則思ふやう。宵に主人のいみじうもてなしつるを嬉しと思ひつれどもかく心得ずあさましき事のあれば疾く出でん。と思ひて未だ明け果てざるに急ぎて出づれば七八町行くほどに後より呼ばひて馬を馳て来る者あり。走り着きて白き紙に包みたる物をさし上げて持て来。馬を控へて待てばありつる宿に通ひしつる郎等なり。これは何ぞ。と問へば。これ郡司の。参らせよ。と候ふ物にて候ふ。かかる物をばいかで棄てておはし候ふぞ。かたの如く御設けして候へども御急ぎにこれをさへ落させ給ひてけり。されば拾い集めて参らせ候ふ。と云へば。いで何ぞ。とて取りて見れば松茸を包み集めたるやうにてある物九つあり。あさましく覚えて八人の郎等どもも怪しみを成して見るに誠に九つの物あり。一度にさつと失せぬ。さて使はやがて馬を馳て帰りぬ。その折我が身より初めて郎等ども皆。ありあり。と云ひけり。
さて奥州にて金受け取りて帰時また信濃のありし郡司の許へ行きて宿りぬ。さて郡司に金馬鷲羽など多くとらす。郡司よによに喜びて。これはいかに思してかくはし給ぞ。と云ひければ近くに寄りて云ふやう。片腹痛き申し事なれども初めこれに参りて候ひし時怪しき事の候ひしはいかなる事にか。と云ふに郡司物を多く得てありければさりがたく思ひてありのままに云ふ。それは若く候ひし時この国の奥の郡に候ひし郡司の年寄りて候ひしが妻の若く候ひしに忍びて罷り寄りて候ひしかばかくの如く失ひてありしに怪しく思ひてその郡司に懇ろに心ざしを尽して習ひて候ふなり。もし習はんと思し召さばこの度は公の御使なり。速かに上り給ひてまたわざと下り給ひて習ひ給へ。と云ひければその契りを成して上りて金など参らせてまた暇を申して下りぬ。郡司にさるべき物など持ちて下りて取らすれば郡司大きに喜びて。心の及ばん限りは教へん。と思ひて。これは朧気の心にて習ふ事にては候はず。七日水を浴み精進をして習ふ事なり。と云ふ。
そのままに清まはりてその日になりてただ二人連れて深き山に入りぬ。大きなる河の流るる辺に行きてさまざまの事どもをえも云はず罪深き誓言ども立てさせけり。その郡司は水上へ入りぬ。その川上より流れ来ん物をいかにもいかにも鬼にてもあれ何にてもあれ抱け。と云ひて行きぬ。暫しばかりありて水上の方より雨降り風吹きて暗くなり水増る。暫しありて川より頭一抱きばかりなる大蛇の目は金椀を入れたるやうにて背は青く紺青を塗りたるやうに頚の下は紅のやうにて見ゆるに。先づ来ん物を抱け。と云ひつれどもせん方なく恐ろしくて草の中に伏しぬ。
暫しありて郡司来りて。いかに。取給つや。と云ひければ。かうかう覚えつれば取らぬなり。と云ひければ。かく口惜しき事かな。さてはこの事はえ習ひ給はじ。と云ひて。今一度試みん。と云ひてまた入りぬ。
暫しばかりありてやをばかりなる猪の出で来て石をはらはらとくだけば火煌々と出づ。毛を苛かして走り懸かる。せん方なく恐ろしけれども。是をさへ。と思ひきりて走り寄りて抱きて見れば朽木の三尺ばかりあるを抱きたり。妬く悔しき事限りなし。初めのもかかる物にてこそありけれ。何どか抱かざりけん。と思ふほどに郡司来たりぬ。いかに。と問へば。かうかう。と云ひければ。前の物失ひ給ふ事はえ習ひ給はずなりぬ。さてこと事のはかなき物を物に成す事は習ひぬめり。さればそれを教へん。とて教へられて帰り上りぬ。口惜き事限りなし。
大内に参りて滝口どもの履きたる沓どもを争ひをして皆犬子になして走らせ古き藁沓を三尺ばかりなる鯉に成して台盤の上に跳らする事などをしけり。御門この由を聞し召して黒戸の方に召して習はせ給ひけり。御几帳の上より賀茂祭などわたし給ひけり。