越前の国に敦賀といふ所に住みける人ありけり。とかくして身一つばかり侘しからで過ぐしけり。女一人より外にまた子もなかりければこの女ぞまたなき物に愛しくしける。この女を。わがあらん折たのもしく見置かん。とて男逢はせけれど男も堪らざりければこれやこれやと四五人までは逢はせけれどもなほたまらざりければしわびて後には合はせざりけり。居たる家の後に堂をたてて。この女助け給へ。とて観音を据ゑ奉りける。
供養し奉りなどしていくばくも経ぬほどに父失せにけり。それだに思ひ歎くに引き続くやうに母も失せにければ泣き悲しめども云ふかひもなし。知行所などもなくてかまへて世を過ぐしければ孀なる女一人あらんにはいかにしてかはかばかしき事あらん。親の物少しありける程は使はるる者四五人ありけれども物失せ果ててければ使はるる者一人もなかりけり。物食ふ事難くなりなどして自ら求め出でたる折は手づからとくふばかりにして食ひては。我が親の思しがひありて助け給へ。と観音に向ひ奉りて泣く泣く申し居たるほどに夢に見るやう。この後ろの堂より老いたる僧の来て。いみじういとほしければ男逢はせんと思ひてよびに遣りたれば明日ぞ此処に来著かんずる。それが云はんに随ひてあるべきなり。と述給ふと見て覚めぬ。
この仏の助け給ふべきなめり。と思ひて水打浴みて参りて泣く泣く申して夢を頼みてその人を待つとて打掃きなどして居たり。家は大きに造りたりければ親失せて後は住みつきあるべかしき事なけれど屋ばかりは大きなりければ片隅にぞ居たりける。敷くべき筵だになかりけり。
かかるほどにその日の夕方になりて馬の足音どもして数多入り来るに人ども覗きなどするを見れば旅人の宿借るなりけり。速かに居よ。と云へば皆入り来てここに借りけり。家広し。いかにぞや。など物云ふべき主人もなくて我がままにも宿り居るかな。など云ひ合ひたり。覗きて見れば主人は三十ばかりなる男のいと清げなるなり。郎等二三十人ばかりある下種など取り具して七八十人ばかりあらんとぞ見ゆる。ただ居に居るに。筵畳を取らせばや。と思へども恥かしと思ひて居たるに皮子筵をこひて皮に重ねて敷きて幕引き廻して居ぬ。
そぞめくほどに日も暮れぬれども物食ふとも見えぬは物のなきにやあらんとぞ見ゆる。物あらば取らせてまし。と思ひ居たるほどに夜打更けてこの旅人の気はひにて。このおはします人寄らせ給へ。物申さん。と云へば。何事にか侍らん。とて膝行り寄りたるを何の障りもなければふと入り来て控へつ。こはいかに。と云へど云はすべくもなきに合せて夢に見し事もありしかばとかく思ひ云ふべきにもあらず。
この男は美濃国に猛将ありけり。それが独子にてその親失せにければ万づの物受け伝へて親にも劣らぬ者にてありけるが思ひける妻におくれて鰥にてありけるをこれかれ。聟に取らん。妻に成らん。と云ふ者数多ありけれども。ありし妻に似たらん人を。と思ひて鰥にて過ぐしけるが若狭に沙汰すべき事ありて行くなりけり。
昼宿り居るほどに片隅に居たる所も何の隠れもなかりければ。いかなる者の居たるぞ。と覗きて見るにただ。ありし妻のありける。と覚えければ目もくれ心も騒ぎて。いつしか疾く暮れよかし。近からん気色も心みん。とて入来たるなりけり。物打云ひたるより初めつゆ違ふ所なかりければ。あさましくかかりける事もありけり。とて。若狭へと思ひ立たざらましかばこの人を見ましやは。と嬉しき旅にぞありける。
若狭にも十日ばかりあるべかりけれどもこの人の関心めたさに。明けば行きてまたの日帰るべきぞ。と返す返す契り置きて寒げなりければ衣も著せ置きて越えにけり。郎等四五人ばかりそれが従者など取り具して二十人ばかりの人のあるに物食はすべきやうもなく馬に草食はすべきやうもなかりければ。いかにせまし。と思ひ歎きけるほどに親の御厨子所に使ひける女の娘のありとばかりは聞きけれども来通ふ事もなくて。よき男して事協ひてあり。とばかりは聞き渡りけるが思ひも懸けぬに来たりけるが。誰にかあらん。と思ひて。いかなる人の来たるぞ。と問ひければ。あな心憂や。御覧じ知れぬは我身の咎にこそ候へ。己は故上のおはしましし折御厨子所仕候ひし者の娘に候ふ。年此。いかで参らん。など思ひて過候ふを今日は万づを捨てて参候ひつるなり。かく便なくおはしますとならば怪しくとも居て候ふ所にもおはしまし通ひて四五日づつもおはしませかし。心ざしは思ひ奉れどもよそながらは明暮訪ひ奉らん事もおろかなるやうに思はれ奉りぬべければ。など細々と談らひて。この候ふ人々はいかなる人ぞ。と問へば。ここに宿りたる人の若狭へとていぬるが明日此処へ帰り着かんずればその程とてこのある者どもを留め置きていぬるにこれにも食ふべき物は具せざりけり。此処にも食はすべき物もなきに日は高くなればいとほしと思へどもすべきやうもなくて居たるなり。と云へば。知り扱ひ奉るべき人にやおはしますらん。と云へば。わざとさは思はねど此処に宿りたらん人の物食はでゐたらんを見過ぐさんもうたてあるべうまた思ひ放つべきやうもなき人にてあるなり。と云へば。さてはいと安き事なり。今日しもかしこく参り候ひにけり。さらば罷りてさるべき様にて参らん。とて立ちて去ぬ。
いとほしかりつる事を思ひがけぬ人の来て頼もしげに云ひて去ぬるはとかくただ観音の導かせ給ふなめり。と思ひていとど手を摩りて念じ奉るほどに即ち物ども持たせて来たりければ食物どもなど多かり。馬の草まで拵へ持ちて来たり。云ふ限りなく嬉しと覚ゆ。
この人々もて饗応し物食はせ酒飲ませ果てて入来たれば。こはいかに。我親の生き返おはしたるなめり。とにかくにあさましくてすべき方なくいとほしかりつる恥を隠し給へる事。と云ひて悦び泣きければ女も打泣きて云ふやう。年此もいかでかおはしますらんと思ひ給へながら世の中過ぐし候ふ人は心と違ふやうにて過ぎ候ひつるを今日かかる折に参り合ひていかでかおろかには思ひ参らせん。若狭へ越え給ひにけん人は何時か帰りつき給はんぞ。御供人はいくらばかりか候ふ。と問へば。いさ誠にやあらん。明日の夕さり此処に来べかんなる。供にはこのある者ども具して七八十人ばかりぞありし。と云へば。さてはその御設けこそ仕るべかんなれ。と云へば。これだに思ひがけず嬉きにさまではいかがあらん。と云ふ。いかなる事なりとも今よりはいかでか仕らであらんずる。とて頼もしく云ひ置きて去ぬ。この人々の夕方翌朝の食物まで沙汰し置きたり。覚えなくあさましきままにはただ観音を念じ奉るほどにその日も暮れぬ。
またの日になりてこのある者ども。今日は殿おはしまさんずらんかし。と待ちたるに申の時ばかりにぞ著きたる。著きたるや遅きとこの女物ども多く持たせて来て申し喧騒れば物頼もし。この男いつしか入り来て覚束なかりつる事など云ひ臥したり。暁はやがて具して行くべき由。など云ふ。いかなるべき事にか。など思へども仏の。ただ任せられてあれ。と夢に見えさせ給しを頼みてともかくも云ふに随ひてあり。
この女暁立たん設けなどもしにやりて急ぎくるめくがいとほしければ。何がな取らせん。と思へども取らすべき物なし。自ら入る事もやあるとて紅なる生絹の袴ぞ一つあるを。これを取らせてん。と思ひて我は男の脱ぎたる生絹の袴を著てこの女を呼び寄せて。年比はさる人あらんとだに知らざりつるに思ひも懸けぬ折しも来合ひて恥がましかりぬべかりつる事をかくしつる事のこの世ならず嬉きも。何に付けてか知らせん。と思へば心ざしばかりにこれを。とて取らすれば。あな心憂や。誤りて人の見奉らせ給ふに御様なども心憂く侍れば奉らんとこそ思ひ給ふるにこは何しにか給はらん。とて取らぬを。この年比も誘ふ水あらば。と思ひ渡りつるに思ひも懸けず。具して往なん。とこの人の云へば明日は知らねども随ひなんずれば形見ともし給へ。とてなほ取らすれば。御心ざしの程は返す返すもおろかには思ひ給ふまじけれども形見など仰せらるるが忝ければ。とて取りなんとするをも程なき所なればこの男聞き臥したり。
鳥鳴きぬれば急ぎ立ちてこの女のし置きたる物食ひなどして馬に鞍置き引き出だして乗らんとするほどに。人の命知らねばまた拝み奉らぬやうもぞある。とて旅装束しながら手洗ひて後ろの堂に参りて観音を拝み奉らんとて見奉るに観音の御肩に赤き物懸かりたり。怪しと思ひて見ればこの女に取らせし袴なりけり。こはいかに。この女と思ひつるはさはこの観音のせさせ給なりけり。と思ふに涙の雨雫と降りて忍ぶとすれど伏し転び泣く気色を男聞き付きて怪しと思ひて走来て。何事ぞ。と問ふに泣く様朧気ならず。
いかなる事のあるぞ。とて見廻すに観音の御肩に赤き袴懸かりたり。これを見るに。いかなる事にかあらん。とて有様を問へばこの女の思ひも懸けず来てしつる有様を細かに語りて。それに取らすと思ひつる袴のこの観音の御肩に懸かりたるぞ。と云ひも遣らず声を立てて泣けば男も空寝して聞きしに。女に取らせつる袴にこそあんなれ。と思ふが悲しくて同じやうに泣く。郎等どもも物の心知りたるは手を摩り泣きけり。
かくて閉てをさめ奉りて美濃へ越えにけり。その後思ひ交はしてまた横目する事なくて住みければ子ども産み続けなどしてこの敦賀にも常に来通ひて観音に返す返す仕う奉りけり。ありし女は。さる物やある。とて近く遠く尋ねさせけれども更にさる女なかりけり。それより後また音づるる事もなかりければ偏にこの観音のせさせ給へるなりけり。この男女互に七八十に成るまで栄えて男子女子産みなどして死の別れにぞ別れにける。