今は昔駿河前司橘季通が父に陸奥前司則光といふ人ありけり。兵家にはあらねども人に所置かれ力などぞいみじう強かりける。世の覚えなどありけり。若くて衛府の蔵人にぞありける時殿居所より女の許へ行くとて太刀ばかりを佩きて小舎人童をただ一人具して大宮を下りに行きければ大墻の内に人の立てる気色のしければ。恐ろし。と思ひて過ぎけるほどに八九日の夜更けて月は西山に近くなりたれば西の大墻の内は陰にて人の立てらんも見えぬに大墻の方より声ばかりして。あの過ぐる人罷り止まれ。公達のおはしますぞ。え過ぎじ。と云ひければ。さればこそ。と思ひてすすどく歩みて過ぐるを。己はさては罷りなんや。とて走り懸かりて物の来ければ俯きて見るに弓の影は見えず太刀の煌々として見えければ。木にはあらざりけり。と思ひて掻い伏して逃ぐるを追ひ付きて来れば。
頭打破られぬ。と覚ゆれば俄に傍らざまにふと寄りたれば追ふ物の走り早まりてえ止まり敢へず先に出でたれば過ごしたてて太刀を抜きて打ちければ頭を中より打割りたりければ俯しに走り転びぬ。ようしん。と思ふほどに。あれはいかにしつるぞ。と云ひてまた物の走り懸かり来れば太刀をもえ差し敢へず脇に挟みて逃ぐるを。けやけき奴かな。と云ひて走り懸かりて来るもの初めのよりは走りの疾く覚えければ。これはよもありつるやうには謀られじ。と思ひて俄に居たりければ走り早まりたる者にて我に蹴躓づきて俯しに倒れたりけるをちがひて立ち懸かりて起こし立てず頭をまた打割りてけり。
今はかく。と思ふほどに三人ありければ今一人が。さてはえやらじ。けやけくしていく奴かな。とて執念く走り懸かりて来ければ。この度は我は過たれなんず。神仏助け給へ。と念じて太刀を鉾のやうに取りなして走り早まりたる者に俄にふと立ち向ひければはらはらと合せて走り当りにけり。やつも切りけれども余りに近く走り当りてければきぬだに切れざりけり。鉾のやうに持ちたりける太刀なりければ受けられて中より通りたりけるを太刀の束を返しければのけざまに倒れたりけるを切りてければ太刀持ちたる肱を肩より打落してけり。
さて走りのきて。また人やある。と聞きけれども人の音もせざりければ走りまひて中御門の門より入りて柱にかい添ひて立ちて。小舎人童はいかがしつらん。と待ちければ童は大宮を上りに泣く泣く行きけるを呼びければ喜びて走り来にけり。殿居所にやりて著替取り寄せて著替へてもと著たりける上のきぬ指貫には血の着きたりければ童して深く隠させて童の口能く固めて太刀に血のつきたる洗ひなどしたためて殿居所にさり気なくて入り臥しにけり。
終夜。我がしたるなど聞えやあらずらん。と胸打騒ぎて思ふほどに夜明て後物ども云ひ騒ぐ。大宮大炊御門の辺に大きなる男三人幾程もへだてず切り伏せたる。あさましく使ひたる太刀かな。互に切り合ひて死にたるかと見れば同じ太刀の使ひざまなり。敵のしたりけるにや。されど盗人と思しき様ぞしたる。など云ひ喧騒るを殿上人ども。いざ行きて見て来ん。とて誘ひて行けば。行かじはや。と思へどもいかざらんもまた心得られぬ様なれば渋々にいぬ。
車に乗りこぼれて遣り寄せて見れば未だともかくもしなさで置きたりけるに年四十余ばかりなる男の鬘髯なるが無文の袴に紺の洗ひ晒しの襖き山吹のきぬの衫よく晒されたる著たるが猪の逆頬の尻鞘したる太刀佩きて牛の皮の足袋に沓きり履きなしてわきをかきおよびをさしてと向きかう向き物云ふ男立てり。何男にか。と見るほどに雑色の走り寄り来て。あの男の盗人かたきに逢ひて仕うまつりたると申す。と云ひければ。嬉しくも云ふなる男かな。と思ふほどに車の前に乗りたる殿上人の。かの男召し寄せよ。子細問はん。と云へば雑色走り寄りて召しもて来たり。
見れば高面髯にて頤そり鼻さがりたり。赤鬚なる男の血目に見なし片膝つきて太刀の柄に手を懸けて居たり。いかなりつる事ぞ。と問へば。この夜中ばかりに物へ罷るとてここを罷り過ぎつるほどに物の三人。おれはまさに過ぎなんや。とて走り続きて参で来つるを。盗人なめり。と思ひ給へて合へ競べ伏せて候ふなり。今朝見ればなにがしを便なしと思ひ給ふべき奴ばらにて候ひければ。敵にて仕りたりけるなめり。と思ひ給ふればしや頭どもを斬つてかく候ふなり。と立ちぬ居ぬ指をさしなど語り居れば人々。さてさて。と云ひて問ひ聞けばいとど狂ふやうにして語り居る。
その時にぞ人に譲りえて面ももたげられて見ける。気しきや著からん。と人知れず思ひたりけれど。我。と名のる者の出で来たりければそれに譲りてやみにしと老いて後に子どもにぞ語りける。