これも今は昔筑紫にたうさかの道祖と申す斉の神ぞまします。その祠に修行しける僧の宿りて寝たりける夜。夜中ばかりにはなりぬらん。と思ふほどに馬の足音数多して人の過ぐると聞くほどに。斎はましますか。と問ふ声す。
この宿りたる僧怪しと聞くほどにこの祠の内より。侍り。と答ふなり。またあさましと聞けば。明日武蔵寺にや参り給ふ。と問ふなれば。さも侍らず。何事の侍るぞ。と答ふ。あす武蔵寺に新仏出で給ふべしとて梵天帝尺諸天龍神集まり給ふとは知り給はぬか。と云ふなれば。然る事もえ承らざりけり。嬉く告げ給へるかな。いかで参らでは侍らん。必ず参らんずる。と云へば。さらば明日の巳時ばかりの事なり。必ず参り給へ。待ち申さん。とて過ぎぬ。
この僧これを聞きて。希有の事をも聞きつるかな。明日は物へ行かんと思ひつれどもこの事見てこそ何処も行かめ。と思ひて明くるや遅きと武蔵寺に参りて見れどもさる気色もなし。例よりはなかなか静かに人も見えず。あるやうあらん。と思ひて仏の御前に候ひて巳時を待ち居たるほどに。今暫しあらば午時になりなんず。いかなる事にか。と思ひ居たるほどに年七十余ばかりなる翁の髪もはげて白きとてもおろおろある頭に袋の烏帽子を引き入れて尤も小さきがいとど腰屈まりたるが杖に縋りて歩む。尻に尼立てり。小さく黒き桶に何にかあるらん物入れてひきさげたり。
御堂に参りて男は仏の御前にて額二三度ばかりつきて木欒子の念珠の大きに長き押し揉みて候へば尼その持たる小桶を翁の傍に置きて。御房呼び奉らん。とて去ぬ。暫しばかりあれば六十ばかりなる僧参りて仏拝み奉りて。何せんに呼び給ふぞ。と問へば。今日明日とも知らぬ身にまかりなりにたればこの白髪の少し残りたるを剃りて御弟子に成らんと思ふなり。と云へば僧目おしすりて。いと尊とき事かな。さらば疾く疾く。とて小桶なりつるは湯なりけり。その湯にて頭洗ひて剃りて戒授けつればまた仏拝み奉りて罷り出でぬ。
その後またこと事なし。さはこの翁の法師になるを随喜して天衆も集まり給ひて新仏の出でさせ給ふとはあるにこそありけれ。出家随分の功徳とは今に始めたる事にはあらねども況して若く盛りならん人のよく道心おこして随分にせん者の功徳これにていよいよ推し量られたり。