今は昔歌詠の元輔内蔵助になりて賀茂祭の使しけるに一条大路渡りけるほどに殿上人の車多くならべ立てて物見ける前渡るほどに寛厚にては渡らで。人見給ふに。と思ひて馬をいたく煽りければ馬狂ひて落ちぬ。年老たる者の頭を逆さまにて落ちぬ。君達。あないみじ。と見るほどにいと疾く起きぬれば冠脱げにけり。髻つゆなし。ただ缶をかづきたるやうにてなんありける。馬添ひ手惑ひをして冠を取りて着せさすれど後ろざまにかきて。あな騒がし。暫し待て。君達に聞ゆべき事あり。とて殿上人どもの車の前に歩み寄る。
日のさしたるに頭きらきらとしていみじう見苦し。大路の者市を成して笑ひ喧騒る事限りなし。車桟敷の者ども笑ひ喧騒るに一の車の方ざまに歩み寄りて云ふやう。君達この馬より落ちて冠落したるをば迂愚なりとや思ひ給ふ。然か思ひ給ふまじ。その故は心ばせある人だにも物に躓き倒るる事は常の事なり。況して馬は心あるものにあらず。この大路はいみじう石高し。馬は口を張りたれば歩まんと思だに歩まれず。と引きかう引きくるめかせば倒れなんとす。馬を悪しと思ふべきにあらず。唐鞍はさらなる鐙のかくうべくもあらず。それに馬はいたく躓けば落ちぬ。それ悪ろからず。
また冠の落つる事は物して結ふ物にあらず。髪をよくかき入れたるに捕へらるるものなり。それに鬢は失せにければひたぶるになし。されば落ちん事冠怨むべきやうもなし。
また例なきにあらず。何の大臣は大嘗会の御禊に落つ。何の中納言はその時の行幸に落つ。かくの如くの例もかんがへやるべからず。然れば案内も知り給はぬこの比の若き君達笑ひ給ふべきにあらず。笑ひ給はば迂愚なるべし。とて車毎に手を折りつつ数へて云ひ聞かす。
かくの如く云ひ果てて。冠持て来。と云ひてなん取りてさし入れける。その時に響みて笑ひ喧騒る事限りなし。冠せさすとて馬添ひの曰く。落ち給ふ即ち冠を奉らでなどかく由なし事は仰せらるるぞ。と問ひければ。痴事な云ひそ。かく道理を云ひ聞かせたらばこそこの君達は後々にも笑はざらめ。さらずば口さがなき君達は長く笑ひなんものをや。とぞ云ひける。人笑はする事役にするなりけり。