これも今は昔丹後前司高階俊平といふ者ありけり。後には法師になりて丹後入道とてぞありける。それが弟にて司もなくてある者ありけり。それが主の許に下りて筑紫にありけるほどに新しく渡たりける唐人の算いみじく置くありけり。それに逢ひて。算おく事習はん。と云ひければ初めは心にも入れで教へざりけるを少しおかせて見て。いみじく算置きつべかりけり。日本にありては何にかはせん。日本に算おく道いとしも賢からぬ所なり。我に具して唐に渡らんと云はば教へん。と云ひければ。能くだに教へてその道に賢くだにもなりなば云はんにこそ従はめ。唐に渡りても用られてだにありぬべくは云はんに随ひ唐にも具せられて往かん。など事善く云ひければそれになん引かれて心に入れて教へける。
教ふるに随ひて一事を聞きては十事も知るやうになりければ唐人もいみじくめでて。我国に算おく者は多かれど汝ばかりこの道に心得たる物はなきなり。必ず我に具して唐に渡れ。と云ひければ。更なり。云はんに随はん。と云ひけり。この算の道には病する人を置き止むる術もあり。また病せねども。憎し。妬し。と思ふ者をたち所に置き殺す術などあるも更に惜しみ隠さじ。君に伝へんとす。確に我に具せん。と云ふ誓事立てよ。と云ひければまほには立てず少しは立てなどしければ。なほ人殺す術をば唐へ渡らん舟の中にて伝へん。とて他事どもをば能く教へたりけれどもその一事をば控へて教へざりけり。かかるほどに能く習ひ伝へてけり。
それに俄に主の事ありて上りければその供に上りけるを唐人聞きて留めけれども。いかで年比の君のかかる事ありて俄に上り給はん送りせではあらん。思ひ知り給へ。約束をば違ふまじきぞ。など賺しければ。実に。と唐人思ひて。さは必ず帰りて来よ。今日明日にても唐へ帰らんと思ふに君の来たらんを待ちつけて渡らん。と云ひければその契りを深くして京に上りにけり。
世の中のすさまじきままには。やをら唐にや渡りなまし。と思ひけれども京に上りにければ親しき人々に云ひ留められて俊平入道など聞きて制し留めければ筑紫へだにえ往かずなりにけり。この唐人は暫しは待ちけるに音をもせざりければわざと使おこせて文を書きて怨みおこせけれども。年老いたる親のあるが今日明日とも知らねばそれが成らんやう見果てて往かんと思ふなり。と云ひ遣りて行かずなりにければ暫しこそ待けれども。謀りけるなりけり。と思へば唐人は唐へ帰り渡りて能く呪ひて行きにけり。初めはいみじく賢かりける者の唐人に呪はれて後にはいみじく惚けて物も覚えぬやうにてありければしわびて法師になりてけり。入道の君とて惚け惚けとしてさせる事なき者にて俊平入道が許と山寺などに通ひてぞありける。
ある時若き女房どもの集まりて庚申しける夜この入道の君片隅に惚けたる体にて居たりけるを夜更けけるままにねぶたがりて中に若く誇りたる女房の云ひけるやう。入道の君こそ。かかる人はをかしき物語などもするぞかし。人々笑ひぬべからん物語し給へ。笑ひて目を覚さん。と云ひければ入道。己は口手づつ人の笑ひ給ふばかりの物語はえし侍らじ。さはあれども笑にあらば笑はかし奉りてんかし。と云ひければ。物語はせじ。ただ笑はかさんとあるは猿楽をし給ふか。それは物語よりは勝る事にてこそあらめ。とまだしきに笑ひければ。さも侍らず。ただ笑はかし奉らんと思ふなり。と云ひければ。こは何事ぞ。疾く笑はかし給へ。いづらいづら。と責められて何にかあらん物持ちて火の明き所へ出で来たりて。何事せんずるぞ。と見れば算を袋を引き解きて算をさらさらと出だしければこれを見て女房ども。これをかしき事にてあるかあるかと。いざいざ笑はん。など嘲るを答へもせで算をさらさらと置き居たりけり。
置き果てて広さ七八分ばかりの算のありけるを一つ取り出でて手に捧げて。御前たちさはいたく笑ひ給ひて侘び給ふなよ。いざ笑はかし奉らん。と云ひければ。その算捧げ給へるこそ迂愚がましくてをかしけれ。何事にて侘ぶばかりは笑はんぞ。など云ひ合ひたりけるにその八分ばかりの算を置き加ふると見ればある人皆ながら漫ろに笑壺に入りにけり。いたく笑ひて留らんとすれどもかなはず。腹の腸切るる心地して死ぬべく覚えければ涙をこぼしすべき方なくて笑壺に入りたる者ども物をだにえ云はで入道に向ひて手を摩りければ。さればこそ申しつれ。笑ひ飽き給ひぬや。と云ひければ頷き騒ぎて伏しかへり笑ふ笑ふ手を摩りければ能く侘びしめて後に置きたる算をさらさらとおし毀ちたりければ笑ひさめにけり。今暫しあらましかば死なまし。またかばかり堪へ難き事こそなかりつれ。といぞ云ひ合ひける。笑ひ困じて集まり伏して病むやうにぞしける。かかれば。人を置き殺し置き生くる術あり。と云ひけるをも伝へたらましかばいみじからまし。とぞ人も云ひける。算の道は恐ろしき事にてぞありける。となん。
