昔袴垂とていみじき盗人の大将軍ありけり。十月ばかりに衣の用ありければ衣少し設けんとてさるべき所々窺ひ歩きけるに夜中ばかりに人皆静り果てて後月の朧なるに衣あまた著たりけるぬしの差貫の稜はさみてきぬの狩衣めきたる著てただ一人笛吹きて行きもやらず黎り行けば。あはれこれこそ我に衣得させんとて出でたる人なめり。と思ひて走り掛かりて。衣を剥がん。と思ふに怪しく物の恐ろしく覚えければ添ひて二三町ばかり往けども我に人こそ付きたると思ひたる気色もなし。いよいよ笛を吹きて往けば。試ん。と思ひて足を高くして走り寄りたるに笛を吹きながら見返りたる気色取り懸かるべくも覚えざりければ走り退きぬ。かやうに数多度とさまかうさまにするにつゆばかりも騒ぎたる気色なし。希有の人かな。と思ひて十余町ばかり具して行く。
さりとてあらんやは。と思ひて刀を抜きて走り掛かりたる時にその度笛を吹きやみて立ち返りて。こは何者ぞ。と問ふに心も失せて我にもあらで蹲居られぬ。また。いかなる者ぞ。と問へば。今は逃ぐともよも逃がさじ。と覚ければ。引剥に候ふ。と云へば。何者ぞ。と問へば。字袴垂となん云はれ候ふ。と答ふれば。さ云ふ者ありと聞くぞ。危げに希有の奴かな。と云ひて。共に参で来。とばかり云ひ掛けてまた同じやうに笛吹きて行く。この人の気色今は逃ぐともよも逃さじ。と覚ければ鬼に神取られたるやうにて共に行くほどに家に行き着きぬ。
何所ぞ。と思へば摂津前司保昌と云ふ人なりけり。家の内に呼び入れて綿厚き衣一つを給はりて。衣の用あらん時は参りて申せ。心も知らざらん人に取り掛かりて汝あやまちすな。とありしこそあさましくむくつけく恐ろしかりしか。いみじかりし人の有様なり。と捕へられて後語りける。