今は昔摂津国にいみじく老いたる入道の行ひ打してありけるが人の。海賊に逢ひたり。と云ふ物語する序に云ふやう。
我は若かりし折は誠に裕福しくてありし身なり。著物食物に飽き満ちて明暮海に浮びて世をば過ぐししなり。淡路の六郎追捕使。となん云ひし。
それに安芸の島にて異舟もことになかりしに舟一艘近く漕ぎ寄す。見れば二十五六ばかりの男の清げなるぞ主と思しくてある。さては若き男二三人ばかりにて僅かに見ゆ。さては女どもの善きなどあるべし。自ら簾の隙より見れば皮子など数多見ゆ。物はよく積みたるはかばかしき人もなくてただこの我が舟につきてありく。屋形の上に若き僧一人居て経読みてあり。下れば同じやうに下り島へ寄れば同じやうに寄る。泊ればまた泊りなどすればこの舟をえ見も知らぬなりけり。
怪しと思ひて問ひてんと思ひて。こはいかなる人のかくこの舟にのみ具してはおはするぞ。何処におはする人にか。と問へば。周防国よりいそぐ事ありて罷るがさるべき頼もしき人も具せねば恐ろしくてこの御舟をたのみてかくつき申たるなり。と云へば。いと迂愚がまし。と思ひて。これは京に罷るにもあらず。爰に人待つなり。待ち付けて周坊の方へ下らんずるは。いかで具してとはあるぞ。京に上らん舟に具してこそおはせめ。と云へば。さらば明日こそはさもいかにもせめ。今宵はなほも舟に具してあらん。とて島隠れなる所に具して泊りぬ。
人々も。只だ今こそよき時なめれ。いざこの舟移してん。とてこの舟に皆乗る時に物も覚えずあきれ惑ひたり。物のある限り我が舟に取り入れつ。人どもは皆男女皆海にとり入るる間に主人手をこそこそとすりて水精の数珠の緒切れたらんやうなる涙をはらはらとこぼして曰く。万づの物は皆取給へ。ただ我が命の限りは助け給へ。京に老いたる親の限りに煩らひて。今一度見ん。と申したれば夜を昼にてつげにつかはしたれば急ぎ罷り上るなり。ともえ云ひやらで我に目を見合せて手を摩るさまいみじ。これかくな云はせそ。例の如く疾く。と云ふに目を見合はて泣き惑ふさまいといといみじ。哀れに無慚に覚えしかども。さ云ひていかがせん。と思ひなして海に入れつ。
屋形の上に二十ばかりにて繊弱なる僧の経袋頚に懸けて夜昼経読みつるを取りて海に打入れつ。時に手惑ひして経袋を取りて水の上に浮びながら手を捧げてこの経を捧げて浮き出で出でする時に。希有の法師の今まで死なぬ。とて舟の櫂して頭をはたと打ち背をつき入れなどすれど浮き出で浮き出でしつつこの経を捧ぐ。怪しと思ひてよく見ればこの僧の水に浮びたるあとまくらに美しげなる童の鬘結ひたるが白き楚を持ちたる二三人ばかり見ゆ。僧の頭に手を懸け一人は経を捧げたる肱をとらへたりと見ゆ。かたへの者どもに。あれ見よ。この僧に付きたる童部は何ぞ。と云へば。いづらいづら。更に人なし。と云ふ。
我が目には確かに見ゆ。この童部添ひてあへて海に沈む事なし。浮かびてあり。怪しければ見んと思ひて。これに取り付きて来。とて棹をさしやりたれば取り付きたるを引寄せたれば人々。などかくはするぞ。由なしわざする。と云へど。さはれこの僧一人は生けん。とて舟に乗せつ。近くなればこの童部は見えず。
この僧に問ふ。我は京の人か。何処へおはするぞ。と問へば。田舎の人に候ふ。法師になりて久しく受戒をえ仕らねば。いかで京に上りて受戒せん。と申ししかば。いざ我に具して山に知りたる人のあるに申しつけてせさせん。と候ひしかば罷り上りつるなり。と云ふ。わ僧の頭や肱に取り付たりつる児どもは誰そ。何ぞ。と問へば。何時かさる者候ひつる。更に覚えず。と云へば。さて経捧げたりつる肱にも童添ひたりつるはそもそも何と思ひて只今死なんとするにこの経袋をば捧げつるぞ。と問へば。死なんずるは思ひ設けたれば命は惜くもあらず。我は死ぬとも経をしばしが程も濡らし奉らじ。と思ひて捧げ奉りしに肱たゆくもあらずあまつさへ軽くて肱も長く成るやうにて高く捧げられ候ひつれば。御経の験。とこそ死ぬべき心地にも覚え候ひつれ。命生けさせ給はんは嬉しき事。とて泣くにこの婆羅門のやうなる心にも哀れに尊く覚えて。これより国へ帰らんとや思ふ。また京に上りて受戒とげんの心あらば送らん。と云へば。更に受戒の心も今は候はず。ただ帰り候ひなん。と云へば。
これより返し遣りてんとす。さても美しかりつる童部は何にかかく見えつる。と語ればこの僧哀れに尊く覚えてほろほろと泣かる。七つより法華経を読み奉りて日比も異事なく物の恐ろしきままにも読み奉りたれば十羅刹のおはしましけるにこそ。と云ふにこの婆羅門のやうなる者の心に。さは仏経はめでたく尊くおはしますものなりけり。と思ひてこの僧に具して山寺などへ往なんと思ふ心付きぬ。
さてこの僧と二人具して糧少しを具して残りの者どもは知らず皆この人々に預けて行けば人々。物に狂ふか。こはいかに。俄の道心世にあらじ。物の憑きたるか。とて制し止むれども聞かで弓箙太刀刀も皆捨ててこの僧に具してこれが師の山寺なる所に往きて法師になりて其処にて経一部読み参らせて行ひ歩りくなり。かかる罪をのみ造りしが無慚に覚えてこの男の手を摩りてはらはらと泣き惑ひしを海に入しより少し道心起りにき。それにいとどこの僧に十羅刹の添ひておはしましけると思ふに法華経の愛でたく読み奉らま欲しく覚えて俄にかくなりてあるなり。と語り侍りけり。