昔右近将監下野厚行といふ者ありけり。競馬によく乗りけり。帝王より始め奉りて覚え殊に勝れたりけり。朱雀院の御時より村上の御門の御時なんどは盛にいみじき舎人にて人もゆるし思ひけり。年高くなりて西京に住みけり。
隣なる人俄に死にけるにこの厚行とぶらひに行きてその子に逢ひて別の間の事どもとぶらひけるに。この死にたる親を出ださんに門悪しき方に向へり。さればとてさてあるべきにあらず。門よりこそ出だすべき事にてあれ。と云ふを聞きて厚行が云ふやう。悪しき方より出ださん事殊に然るべからず。かつは数多の御子たちの為殊に忌はしかるべし。厚行が隔の垣を破りてそれより出だし奉らん。かつは生き給ひたりし時事に触れて情のみありし人なり。かかる折だにもその恩を報じ申さずば何をもてか報い申さん。と云へば子どもの云ふやう。無為なる人の家より出ださん事あるべきにあらず。忌の方なりとも我が門よりこそ出ださめ。と云へども。僻事なし給そ。ただ厚行が門より出だし奉らん。と云ひて帰りぬ。
我が子どもに云ふやう。隣の主の死にたるいとほしければ弔ひに行きたりつるにあの子どもの云ふやう。忌の方なれども門は一つなればこれよりこそ出さめ。と云ひつればいとほしく思ひて。中の垣を破りて我門より出だし給へ。と云ひつる。と云ふに妻子ども聞きて。不思議の事し給ふ親かな。いみじき穀断の聖なりともかかる事する人やはあるべき。身思はぬと云ひながら我が家の門より隣の死人出だす人やある。返す返すもあるまじき事なり。と皆云ひ合へり。厚行。僻事な言ひ合ひそ。ただ厚行がせんやうに任せて見給へ。物忌し奇しく忌むやつは命も短くはかばかしき事なし。ただ物忌まぬは命も長く子孫も栄ゆ。いたく物忌み奇しきは人と云はず。恩を思ひ知り身を忘るるをこそ人とは云へ。天道もこれをぞ恵み給ふらん。由なき事な侘び合ひそ。とて下人ども呼びて中の桧垣をただ毀ちに毀ちてそれよりぞ出ださせける。
さてその事世に聞えて殿原もあざみ誉め給ひけり。さてその後九十ばかりまで保ちてぞ死にける。それが子どもに至るまで皆命長くて下野氏の子孫は舎人の中にも多くあるとぞ。