宇治拾遺物語 - 050 平貞文本院侍従等の事

今は昔兵衛佐平貞文をば。平中。といふ。色ごのみにて宮仕人はさらなり人の娘など忍びて見ぬはなかりけり。思ひ懸けて文遣る程の人の靡かぬはなかりけるに本院侍従といふは村上の御母后の女房なり。世の色ごのみにてありけるに文遣るに憎からず返事はしながら逢ふ事はなかりけり。暫しこそあらめ遂にはさりとも。と思ひて物の哀れなる夕ぐれの空また月の明き夜など艶に人の目留めつべき程を計らひつつ音づれければ女も見知りて情はかはしながら心をば許さずつれなくてはしたなからぬほどに答へつつ人居交り苦しかるまじき所にては物云ひなどはしながらめでたく遁れつつ心も許さぬを男はさも知らでかくのみ過ぐる心もとなくて常よりも繁く音づれて。参らん。と云ひおこせたりけるに例のはしたなからず答へたれば四月の晦日比に雨おどろおどろしく降りて物恐ろしげなるに。かかる折に行きたらばこそ哀とも思はめ。と思ひて出でぬ。
道すがら。堪へ難き雨をこれに往きたらんに逢はで帰す事よも。と頼もしく思ひて局に行きたれば人出で来て。上になれば案内申さん。とて端の方に入れて去ぬ。見れば物の後に火仄かに点して宿直物と思しき衣伏籠に掛けて薫物しめたる匂ひなべてならず。いとど心憎くて身に沁みて。いみじ。と思ふに人帰りて。只今下りさせ給ふ。と云ふ。うれしさ限りなし。
即ち下りたり。かかる雨にはいかに。など云へば。これに障らんは無下に浅き事にこそ。など云ひかはして近く寄りて髪を探れば氷を伸し懸けたらんやうに冷かにてあたきめでたき事限りなし。何やかやとえも云はぬ事ども云ひかはしてうたがひなく思ふに。あはれ遣戸を開けながら忘れて来にける。つとめて。誰か開けながら葉出でにけるぞ。など煩しき事になりなんず。閉てて帰らん程もあるまじ。と云へば。さる事と思ひてかばかり打解けにたれば心安くて衣を留めて参らせぬ。
誠に遣戸閉つる音して此方へ来らんと待つほどに音もせで奥ざまへ入りぬ。それに心もとなくあさましくうつし心も失せはてて這ひも入りぬべけれどすべき方もなくて遣りつる悔しさを思へどかひなければ泣く泣く暁近く出でぬ。
家に行きて思ひ明してすかし置きつる心憂さ書き続けて遣りたれど。何しにか賺さん。帰らんとせしに召ししかば後にも。など云ひて過ごしつ。
大方間近き事はあるまじきなめり。今はさはこの人のわろく疎ましからん事を見て思ひ疎まばや。かくのみ心尽しに思はでありなん。と思ひて随身を呼びて。その人の樋洗のかはごもていかん。奪ひ取りて我に見せよ。と云ひければ日比添ひて伺ひて辛うじて逃げたるを追ひて奪ひ取りて主にとらせつ。
平中悦びて隠れに持て行きて見れば香なる薄物の三重がさねなるに包みたり。香ばしき事類ひなし。引き解きてあくるに香ばしさ譬へん方なし。見れば沈丁子を濃く煎じて入れたり。また薫物をば多く転がしつつ数多入れたり。さるままに香ばしさ推し量るべし。見るにいとあさまし。ゆゆしげにし置きたらばそれに見飽きて心もや慰む。とこそ思ひつれ。こはいかなる事ぞ。かく心ある人やはある。尋常人とも覚えぬ有様ども。といとど死ぬばかり思へどかひなし。我が見んとしもやは思ふべきに。とかかる心ばせを見て後はいよいよ恍惚しく思ひけれど遂に逢はで止みにけり。
我身ながらも彼に世に恥ぢがましくねたく覚えし。と平中密かに人に忍びて語りけるとぞ。