この近くの事なるべし。女ありけり。雲林院の菩提講に大宮を上りに参りけるほどに西院の辺近くなりて石橋ありける。水の辺を二十余三十ばかりの女房中ゆひて歩み行くが石橋を踏み返して過ぎぬる跡に踏み返されたる橋の下に斑なる小蛇のきりきりとして居たれば。石の下に蛇のありける。と見るほどにこの踏み返したる女の後に立ちてゆらゆらとこの蛇の行けば後なる女の見るに怪しくて。いかに思ひて行くにかあらん。踏み出されたるを悪しと思ひてそれが報答せんと思ふにや。これがせんやう見ん。とて後に立ちて行くにこの女時々は見返りなどすれども我が伴に蛇のあるとも知らぬげなり。また同じやうに行く人あれども蛇の女に具して行くを見つけ云ふ人もなし。ただ最初見付けたる女の目にのみ見えければ。これがしなさんやう見ん。と思ひてこの女の後を離れず歩み行くほどに雲林院に参り着きぬ。
寺の板敷に昇りてこの女居ぬればこの蛇も昇りて傍に蟠り伏したれどこれを見つけ騒ぐ人なし。稀有のわざかな。と目を放たず見るほどに講はてぬれば女立ち出づるに随ひて蛇も付きて出でぬ。この女。これがしなさんやう見ん。とて後に立ちて京ざまに出でぬ。
下ざまにき行とまりて家あり。その家に入れば蛇も具して入りぬ。これぞこれが家なりける。と思ふに。昼は姿もなきなめり夜こそとかくする事もあらんずらめ。これが夜の有様を見ばや。と思ふに見るべきやうもなければその家に歩み寄りて。田舎より上る人の行き止まるべき所も候はぬを今宵ばかり宿させ給はなんや。と云へばこの蛇の付きたる女を家主人と思ふに。此処に宿り給ふ人あり。と云へば老いたる女出で来て。誰れか述給ふぞ。と云へば。これぞ家の主人なりける。と思ひて。今宵ばかり宿借り申すなり。と云ふ。よく侍りなん。入りておはせ。と云ふ。嬉し。と思ひて入りて見れば板敷のあるに昇りてこの女居たり。
蛇は板敷の下に柱のもとに蟠りてあり。目を着けて見ればこの女を見守り上げてこの蛇は居たり。蛇付きたる女。殿にあるやうは。など物がたりし居たり。宮仕する者なりと見る。
かかるほどに日ただ暮れに暮れて暗くなりぬれば蛇の有様を見るべきやうもなくこの家主と覚ゆる女に云ふやう。かく宿させ給へるかはりに苧やある績みて奉らん。火点し給へ。と云へば。嬉しく述給ひたり。とて火点しつ。苧取り出だして預けたればそれを績みつつ見ればこの女臥しぬめり。今や寄らんずらん。と見れども近くは寄らず。この事やがても告げばや。と思へども。告げたらば我が為も悪しくやあらん。と思ひて物も云はで。しなさんやう見ん。とて夜中の過ぐるまで見守りゐたれども終に見ゆる方もなきほどに火消えぬればこの女も寝ぬ。
明けて後。いかがあらん。と思ひて惑ひ起きて見ればこの女よきほどに寝起きてともかくもなげにて家主人と覚る女に云ふやう。今宵夢をこそ見つれ。と云へば。いかに見給へるぞ。と問へば。この寝たる枕上に人の居る。と思ひて見れば腰より上は人にて下は蛇なる女清げなるがゐて云ふやう。己は人を恨めしと思ひしほどにかく蛇の身を受け手石橋の下に多くの年を過ぐして。侘し。と思ひ居たるほどに昨日己が重しの石を踏み返し給ひしに助けられて石の苦を免れて。嬉し。と思ひ給しかばこの人のおはし着かん所を見置き奉りて。悦びも申さん。と思ひて御供に参りしほどに菩提講の庭に参り給ひければその御供に参りたるに依りて逢ひ難き法を承り事足に依りて多く罪をさへ滅ぼしてその力にて人に生れ侍るべき功徳の近くなり侍ればいよいよ悦びを戴きてかくて参りたるなり。この報いには物善くあらせ奉りて善き男など逢はせ奉るべきなり。と云ふとなん見つる。と語るにあさましくなりてこの宿りたる女の云ふやう。誠は己は田舎より上りたるにも侍らずそこそこに侍る者なり。それが昨日菩提講に参り侍りし道にそのほどに行き合ひ給たりしかば後に立ちて歩み罷りしに大宮のそのほどの河の石橋を踏み返されたりし下より斑なりし小蛇の出で来て御供に参りしをかくと告げ申さんと思しかども。告げ奉りては我が為も悪しき事にてもやあらんずらん。と恐ろしくてえ申さざりしなり。誠講の庭にもその蛇侍りしかども人もえ見付けざりしなり。果てて出で給ひし折また具し奉りたりしかばなり果てんやうゆかしくて思ひもかけず今宵ここにて夜を明し侍りつるなり。この夜中過ぐるまではこの蛇柱のもとに侍りつるが明けて見侍りつれば蛇も見え侍らざりしなり。それに合はせてかかる夢語をし給へばあさましく恐ろしくてかくあらはし申すなり。今よりはこれを序にて何事も申さん。など言ひ語らひて後は常に行き通ひつつ知る人になんなりにける。さてこの女世にものよくなりてこの比は何とは知らず大殿の下家司のいみじく徳あるが妻になりて万づ事協ひてぞありける。尋ねば隠れあらじかしとぞ。