今は昔父母主もなく妻も子もなくてただ一人ある青侍ありけり。すべき方もなかりければ。観音助け給へ。とて長谷に参りて御前に俯伏し伏して申しけるやう。この世にかくてあるべくはやがてこの御前にて干死に死なん。もしまた自らなる便もあるべくばその由の夢を見ざらん限りは出でなまし。とて俯伏し伏したりけるを寺の僧見て。こはいかなる者のかくては候ふぞ。物食ふところも見えず。かく俯伏し伏したれば寺の為けがらひ出で来て大事になりなん。誰を師にはしたるぞ。何処にてか物は食ふ。など問ひければ。かく便なき者は師もいかでか侍らん。物給はる所もなく。哀れ。と申す人もなければ仏述給はん物を食べて仏を師と頼み奉りて候ふなり。と答へければ寺の僧ども集まりて。この事いと不便のことなり。寺の為に悪しかりなん。観音をかこち申す人にこそあんなれ。これ集まりて養ひて候はせん。とて代る代る物を食はせければ持て来る物を食ひつつ御前を立ち去らず候けるほどに三七日になりにけり。
三七日果てて明けんとする夜の夢に御帳より人の出でて。この男前世の罪の報いをば知らで観音をかこち申してかくて候ふこといと怪しき事なり。さはあれども申す事のいとほしければ聊の事計らひ給はりぬ。先づ速に罷り出でよ。罷り出でんに何もあれ手に当らん物を取りて捨てずして持ちたれ。疾く疾く罷り出でよ。と追はるると見て匐ひ起きて約束の僧の許行きて物打食ひて罷り出でけるほどに大門にて蹴躓きて俯伏しに倒れにけり。
起きあがりたるにあるにもあらず手に握られたる物を見れば藁すべと云ふ物ただ一筋握られたり。仏述給ふ物にてあるにやあらん。といとはかなく思へども。仏の計らせ給ふやうあらん。と思ひてこれを手弄りにしつつ行くほどに虻一つふめきて顔のめぐりにあるを煩ければ木の枝を折りて払ひ捨つれどもなほただ同じやうに煩さくふめきければ捕へて腰をこの藁すぢにて引き括りて杖の先につけて持たりければ腰を括られて外へはえ行かでふめき飛び廻りけるを長谷に参りける女車の前の簾を打被きて居たる児のいと美しげなるが。あの男の持ちたる物は何ぞ。かれ乞ひて我に給べ。と馬に乗りて供にある侍に云ひければその侍。その持ちたる物若君の召すに参らせよ。と云ひければ。仏述給びたる物に候へどかく仰せごと候へば参らせて候はん。とて取らせたりけば。この男いと哀れなる男なり。若君の召す物を安く参らせたる事。と云ひて大柑子を。これ喉乾くらんたべよ。とて三いと香ばしき陸奥国紙に包みて取らせたりければ侍取り伝へて取らす。
藁一すぢが大柑子三つになりぬる事。と思ひて木の枝に結ひ付けて肩に打掛けて行くほどに。故ある人の忍びて参るよ。と見えて侍など数多具して徒より参る女房の歩み困じてただ立てりに立てり居たるが。喉の乾けば水飲ませよ。とて消え入る様にすれば供の人々手惑ひをして。近く水やある。と走り騒ぎ求むれど水もなし。こはいかがせんずる。御旅籠馬馬にやもしある。と問へば。遥に後れたり。とて見えず。
ほとほとしきさまに見ゆれば誠に騒ぎ惑ひてしあつかふを見て。喉乾きて騒ぐ人よ。と見ければやはら歩み寄りたるに。ここなる男こそ水のあり所は知りたるらめ。この辺近く水の清き所やある。と問ひければ。この四五町が内には清き水候はじ。いかなる事の候ふにか。と問ひければ。歩み困ぜさせ給ひて御喉の乾かせ給ひて水欲しがらせ給ふに水のなきが大事なれば尋ねぬるぞ。と云ひければ。不便に候ふ御事かな。水の所は遠くて汲みて参らば程へ候ひなん。これはいかが。とて包みたる柑子を三つながら取らせたりければ喜び騒ぎて食はせたりければそれを食ひて漸々目を見あけて。こはいかなりつる事ぞ。と云ふ。御喉乾かせ給ひて。水飲ませよ。と仰せられつるままに御とのごもり入らせ給ひつれば水求め候ひつれども清き水も候はざりつるにここに候ふ男の思ひがけぬにその心を得てこの柑子を三つ奉りたりつれば参らせたるなり。と云ふにこの女。我はさは喉乾きて絶え入りたりけるにこそありけれ。水飲ませよ。と云ひつるばかりは覚ゆれどその後の事は露覚えず。この柑子えざらましかばこの野中にて消え入りなまし。嬉しかりける男かな。この男未だあるか。と問へば。かしこに候。と申す。その男。暫しあれ。と云へ。いみじからん事ありとも絶え入はてなば甲斐なくてこそやみなまし。男の嬉しと思ふばかりの事はかかる旅にてはいかがせんずるぞ。食物は持ちて来たるか。食はせてやれ。と云へば。あの男暫し候へ。御旅籠馬など参りたらんに物など食ひて罷れ。と云へば。承りぬ。とて居たるほどに旅籠馬皮籠馬など来着きたり。
何どかく遥に後れては参るぞ。御旅籠馬などは常に先立つこそ善けれ。急の事などもあるにかく後るるはよき事かは。など云ひてやがて幔引き畳など敷きて。水遠かんなれど困ぜさせ給ひたれば食し物は此処にて参らすべきなり。とて夫ども遣りなどして水汲ませ食物し出だしたればこの男に清げにして食はせたり。
物を食ふ食ふ。ありつる柑子何にか成らんずらん。観音計らはせ給ふ事なればよも空しくてはやまじ。と思ひ居たるほどに白く善き布を三むら取り出でて。これあの男に取らせよ。この柑子の喜びは言ひ尽くすべき方もなけれどもかかる旅の道にては嬉しと思ふばかりの事はいかがせん。これはただ志の始めを見するなり。京のおはしまし所はそこそこになん。必ず参れ。この柑子の喜びをばせんずるぞ。と云ひて布三むら取らせたれば喜びて布を取りて。藁筋すぢ筋が布三疋になりぬる事。と思ひて脇に挟みて罷るほどにその日は暮れにけり。
道づらなる人の家に留まりて明けぬれば鳥とともに起きて行くほどに日さし上がりて辰の時ばかりにえも云はず善き馬に乗りたる人この馬を愛しつつ道も行きやらずふるまはするほどに。誠にえも云はぬ馬かな。これをぞ千貫かけなどは云ふにやあらん。と見るほどにこの馬俄に倒れてただ死に死ぬれば主我にもあらぬ気色にて下りて立ち居たり。手惑ひして従者どもも鞍おろしなどして。いかがせんずる。と云へどもかひなく死に果てぬれば手を打ちあさましがり泣ぬばかりに思ひたれどすべき方なくて怪しの馬のあるに乗りぬ。
かくて此所にありともすべきやうもなし。我はいなん。これともかくもして引き隠せ。とて下衆男を一人留めていぬればこの男見て。この馬わが馬にならんとて死ぬるにこそあんめれ。藁一すぢ柑子三になりぬ。柑子三つが布三むらになりたり。この布馬に成るべきなめり。と思ひて歩み寄りてこの下衆男に云ふやう。こはいかなりつる馬ぞ。と問ひければ。陸奥国より得させ給へる馬なり。万づの人の欲しがりて価も限らず買はんと申しつるをも惜しみて放ち給はずして今日かく死ぬればその価少分をも取らせ給はずなりぬ。己も皮をだに剥がばやと思へど旅にてはいかがすべきと思ひてまもり立ちて侍るなり。と云ひければ。その事なり。いみじき御馬かなと見侍りつるにはかなくかく死ぬる事命あるものはあさましき事なり。誠に旅にては皮剥ぎ給ひたりともえ乾し給ふまじ。己はこの辺に侍れば皮剥ぎて遣ひ侍らん。得させておはしね。とてこの布を一むら取らせたれば男。思はずなる所得したり。と思ひて。思ひぞ返す。とや思ふらん布を取るままに見だにも返らず走り去ぬ。
男よく遣り果てて後手かき洗ひて長谷の御方の向ひて。この馬生けて給はらん。と念じ居たるほどにこの馬目を見上ぐるままに頭をもたげて起きんとしければやはら手を掛けて起しぬ。嬉しき事限りなし。おくれて来る人もぞある。またありつる男もぞ来る。など危く覚えければやうやう隠れの方に引き入れて時移るまで休息てもとのやうに心地もなりにければ人の許に引きもて行きてその布一むらして轡やあやしの鞍に替へて馬に乗りぬ。
京ざまに上るほどに宇治辺にて日暮れにければその夜は人の許にとまりて今一むらの布して馬の草我が食物などに替へてその夜はとまりて翌朝いと疾く京ざまに上りければ九条わたりなる人の家に物へ往かんずるやうにて立ち騒ぐ所あり。この馬京に率て行きたらんに見知りたる人ありて。盗みたるか。など云はれんも由なし。やはらこれを売りてばや。と思ひて。かやうの所に馬など用なる物ぞかし。とて下り立ちて寄りて。もし馬などや買はせ給ふ。と問ひければ。馬がな。と思ひけるほどにこの馬を見て。いかがせん。と騒ぎて。只今替り絹などはなきをこの鳥羽の田や米などには替へてんや。と云ひければ。なかなか絹よりは第一の事なり。と思ひて。絹や銭などこそ用には侍れ。己は旅なれば田ならば何にかはせんずると思ひ給ふれど馬の御用あるべくはただ仰せにこそ従はめ。と云へばこの馬に乗り心み馳せなどして。ただ思ひつるさまなり。と云ひてこの鳥羽の近き田三町稲少し米など取らせてやがてこの家を預けて。己もし命ありて帰り上りたらばその時返し得させ給へ。上らざらん限りはかくて居給へれ。もしまた命絶えてなくもなりなばやがてわが家にして居給へ。子も侍らねばとかく申す人もよも侍らじ。と云ひて預けてやがて下りにければその家に入り居て得たりける。
米稲など取り置きてただ一人なりけれど食物ありければ傍らその辺なりける下衆など出できて使はれなどしてただありつきに居つきにけり。二月ばかりの事なりければその得たりける田を半らは人に作らせ今半らは我が料に作らせたりけるが人の方のも善けれどもそれは世の常にて己が分とて作りたるは殊の外多く出で来たりければ稲多く刈り置きてそれより打始め風の吹き付くるやうに徳付きていみじき徳人にてぞありける。その家主人も音せずなりにければその家も我が物にして子孫など出で来て殊の外に栄えたりけるとか。