昔西天竺に龍樹菩薩と申す上人まします。智恵甚深なり。また中天竺に提婆菩薩と申す上人龍樹の智恵深き由を聞き給ひて西天竺に行き向ひて門外に立ちて案内を申さんとし給ふ所に御弟子外より来給ひて。いかなる人にてましますぞ。と問ふ。提婆菩薩答へ給ふやう。大師の智恵深くまします由承りて険難を凌ぎて中天竺より遥々参りたり。この由申すべき。由述給ふ。
御弟子龍樹に申しければ小箱に水を入れて出ださる。提婆心得給ひて衣の襟より針を一つ取り出だしてこの水に入れて返し奉る。これを見て龍樹大きに驚きて。早く入れ奉れ。とて房中を掃ひ清めて入れ奉り給ふ。
御弟子怪しみ思ふやう。水を与へ給ふ事は。遠国より遥々と来たり給へば疲れ給ふらん。喉潤さんため。と心得たればこの人針を入れて返し給ふに大師驚き給ひて。敬ひ給ふ事心得ざる事かな。と思ひて後に大師に問ひ申しければ答へ給ふやう。水を与へつるは我が智恵は小箱の内の水の如し。しかるに汝万里を凌ぎて来たる。智恵を浮かべよ。とて水を与へつるなり。上人そらにその心を知りて針を水に入れて返す事は。我が針ばかりの智恵を以て汝が大海の底を極めん。となり。汝等年来随逐すれどもこの心を知らずしてこれを問ふ。上人は始めて来たれども我心を知る。これ智恵のあるとなきとなり。云々。即ち瓶水をうつす如く法文を習ひ伝へ給ひて中天竺に帰り給ひけりとなん。