宇治拾遺物語 - 150 河原院に融公の霊住む事

今は昔河原院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩竃の形を造りて潮汲み寄せて塩を焼かせなどさまざまのをかしき事を尽くして住み給ひける。大臣亡せて後宇多院には奉りたるなり。
延喜の御門度々行幸ありけり。まだ院の住ませ給ひけるをりに夜中ばかりに西の対の塗籠を開けてそよめきて人の参るやうに思されければ見させ給へば日の装束麗しくしたる人の太刀佩き笏取りて二間ばかり退きて畏まりて居たり。あれは誰そ。と問はせ給へば。此処の主に候翁なり。と申す。融の大臣か。問はせ給へば。しかに候ふ。と申す。さはなんぞ。と仰せらるれば。家なれば住み候ふにおはしますが忝く所狭く候ふなり。いかが仕るべからん。と申せば。それはいといとことやうの事なり。故大臣の子孫の我に取らせたれば住むにこそあれ。我がおし取りて居たらばこそあらめ。礼も知らずいかにかくは恨むるぞ。と高やかに仰せられければ掻い消つやうに失せぬ。
その折の人々。なほ御門はかたことにおはしますものなり。ただの人はその大臣に逢ひてさやうにすくよかには云ひてんや。とぞ云ひける。