宇治拾遺物語 - 176 経頼蛇に逢ふ事

昔経頼といひける相撲の家の傍にふる川のありけるが深き渕なる所ありけるに夏その川近く木蔭のありければ帷子ばかり著て中結ひて足太履きて杈椏杖と云ふ物つき小童一人供に具してとかく歩りきけるが涼まんとてその渕の傍らの木蔭に居にけり。渕青く恐ろしげにて底も見えず。芦薦などいふ物生ひ茂りたりけるを見て汀近く立てりけるに。彼方の岸は六七段ばかりは退きたるらん。と見ゆるに水の漲りて此方ざまに来ければ。何のするにかあらん。と思ふほどに此方の汀近くなりて虵の頭をさし出でたりければ。この蛇大きならんかし。外ざまに昇らんとするにや。と見立てりけるほどに虵頭を抬げてつくづくと目守りけり。いかに思ふにかあらん。と思ひて汀一尺ばかり退きて端近く立ちて見ければ暫しばかり目守り目守りて頭を引き入れてけり。
さて彼方の岸ざまに水漲ると見けるほどにまた此方ざまに水浪立ちて後虵の尾を汀よりさし上げて我が立ちてる方ざまにさし寄せければ。この虵思ふやうのあるにこそ。とて任せて見立てりければなほさし寄せて経頼が足を三返四返ばかり纏ひけり。いかにせんずるにかあらん。と思ひて立てるほどに纏ひえてきしきしと引きければ。河に引き入れんとするにこそありけれ。とその折に知りて踏み強りて立てりければ。いみじう強く引く。と思ふほどに履きたる足駄の歯を踏み折りつ。引き倒されぬべきを構へて踏み直りて立てりければいみじう強く引くとも疎かなり。引き取られぬべく覚ゆるを足を強く踏み立てければ片つらに五六寸ばかり足を踏み入れて立てりけり。能く引くなり。と思ふほどに縄などの切るるやうに切るるままに水中に血のさつと沸き出づるやうに見えければ。切れぬるなりけり。とて足を引きければ虵引きさして上りけり。
その時足に纏ひたる尾を引きほどきて足を水に洗ひけれども虵の跡失せざりければ。酒にてぞ洗ふ。と人の云ひければ酒とりに遣りて洗ひなどして後に従者ども呼びて尾の方を引き上げさせたりければ大きなりなども疎かなり。切口の大きさ径一尺ばかりあらん。とぞ見えける。
頭の方の切れを見せに遣りたりければ彼方の岸に大きなる木の根のありけるに頭の方を数多かへり纏ひて尾をさしおこして足を纏ひて引くなりけり。力の劣りて中より切れにけるなめり。我身の切るるをも知らず引きけんあさましき事なりかし。
その後。虵の力の程幾人ばかりの力にかありし。とこれ試みんとて大きなる縄を虵のまきたる所につけて人十人ばかりして引かせてけれども。なほ足らずなほ足らず。と云ひて六十人ばかりかかりて引きける時にぞ。かくばかりぞ覚えし。と云ひける。それを思ふに。経頼が力はさは百人ばかりが力を持ちたるにや。と覚ゆるなり。

宇治拾遺物語 - 177 魚養の事