これも今は昔南京に仁戒上人といふ人ありけり。山階寺の僧なり。才学寺中に並ぶ輩なし。然かるに俄に道心を起こして寺を出でんとしけるにその時の別当興正僧都いみじう惜みて制し留めて出だし給はず。しわびて西の里なる人の女を妻にして通ひければ人々やうやう私語やきたちけり。人に普く知らせんとて家の門にこの女の頚にい抱きつきて後ろに立ち添ひたり。行き通る人見てあさましがり心憂がる事限りなし。徒者になりぬと人に知らせん為なり。
さりながらこの妻と相具しながら更に近づく事なし。堂に入りて終夜眠らずして涙を落して行ひけり。この事を別当僧都聞きていよいよ尊みて呼び寄せければしわびて逃げて葛下郡の郡司が聟になりにけり。念珠などをも態と持たずしてただ心中の道心はいよいよ堅固に行ひけり。ここに添下郡の郡司この上人に目を留めて深く尊み思ひければ跡も定めず歩りきけるしりに立ちて衣食沐浴等をいとなみけり。上人思ふやう。いかに思ひてこの郡司夫妻は懇ろに我を訪らふらん。とてその心を尋ぬれば郡司答ふるやう。何事か侍らん。ただ貴く思ひ侍ればかやうに仕るなり。但一事申さんと思ふ事あり。と云ふ。何事ぞ。と問へば。御臨終の時いかにしてか値ひ申べき。と云ひければ上人心に任せたる事のやうに。いと安き事にありなん。と答ふれば郡司手を摩りて喜びけり。
さて年比過ぎてある冬雪降りける日暮方に上人郡司が家に来ぬ。郡司喜びて例のことなれば食物下人どもにもいとなませず夫婦手づから自らして召させけり。湯など浴みて臥しぬ。暁はまた郡司夫妻とく起きて食物種々に営むに上人の臥し給へる方香ばしき事限りなし。ひ一家に充ち満てり。こは名香など焼き給ふなめり。と思ふ。暁は疾く出でん。と述給ひつれども夜明くるまで起き給はず。郡司。御粥出できたり。この由申せ。と御弟子に云へば。腹あしくおはする上人なり。悪しく申して打たれ申さん。今起き給ひなん。と云ひて居たり。
さるほどに日も出でぬれば。例はかやうに久しくは寝給はぬに怪し。と思ひて寄りて音なひけれど音なし。引き開けて見ければ西に向ひ端座合掌して早や死に給へり。あさましき事限りなし。郡司夫婦御弟子どもなど悲しみ泣きみ且つは貴み拝みけり。暁香ばしかりつるは極楽の迎へなりけり。と思ひ合す。終りに逢ひ申さんと申ししかばここに来たり給ひてけるにこそ。と郡司泣く泣く葬送の事もとり沙汰しけるとなん。